朔望

風韻 Ⅱ

 §~聖ヨト暦332年レユエの月黒ひとつの日~§

何か出来ることはないかと思い、ヨーティアの研究室を訪ねた悠人は、予想外の研究成果を聞かされた。


 ――――数日後に、現代世界に帰るための『門』が開く――――


話によれば、時深の出現によってヨーティアの研究に飛躍的な進歩が加えられ、
それによって『門』――ファンタズマゴリアと現代世界を繋ぐ通路のようなもの――を開く事が出来るようになった。
難しい説明は半分も理解できなかったが、ただ今回を逃すともう数千年は無理らしい。
更に、これ以上のエターナルの介入を防ぐ為、『門』に『蓋』をしてしまうという。
外界との繋がりを完全に切ってしまうのだ。それにより、ファンタズマゴリアは初めて世界として「自立」を得る。
それはレスティーナの理想にも平和にも欠かせないものだが、しかし悠人にとっては素直に喜べなかった。
時深によれば、元居た世界は極端にマナの少ない世界なのだ。スピリットが生存出来るような場所ではない。
ファーレーンが一緒に来れない以上、自分が残るしかない。それはいい。悩みは、佳織の事だった。
佳織はどうするだろう。元々現代世界に生きてきたのだから、帰るのが望ましい事は確かだったが、
そうなると佳織は独りぼっちになってしまう。かといって、残れと押し付けるのも今の悠人には出来なかった。

「悠人さん、佳織ちゃんには私から」
「……いや、俺から話すよ。俺が話さなきゃいけないんだ」

兄として。もしかしたら最後になるかもしれないこの役目を、時深に譲るわけにはいかなかった。

 §~聖ヨト暦332年レユエの月黒みっつの日~§

そう決心はしたものの、中々話し出す切欠を掴めない。
悠人はスピリット隊隊長としての業務をエスペリアから山のように依頼されていたし、
佳織は佳織でレスティーナの仕事を自主的に手伝っているらしく、昼間はすれ違いっぱなしだった。
話の内容が内容なので出来ればじっくり話し合いたいと思ったが、そんな機会は到底見つかりそうもない。
時深が探った所によると、どうやら敵はソーン・リーム台地に篭って何かを企てている気配らしい。
そんな事まで判るのか、と内心呆れる思いがしたが、いずれにせよ戦いはすぐそこまで迫っていた。
市民に明かさないまま一国が戦闘準備を行うのだ、忙しいのは関係者全てが一緒だった。

言い出せないまま一日を過ごした悠人は結局いい考えも浮かばず、苦し紛れにファーレーンの部屋へと向かった。
同じ妹を持つ者同士、相談したら何か良い知恵が出てくるかもしれない、そんなある意味安直な気分で。
一日顔を合わせなかったので寂しい、という事ももちろん、少なからずあることはあるが。
「ファー、今いいかな?」
部屋の扉をノックする。こん、こん、と乾いた木の軽い音が響き、すぐに中から返事が聞こえた。
「あ、お兄ちゃん! 丁度良い所に来てくれたね!」
「か、佳織?!」
しかし期待はものの見事に裏切られた。ファーレーンとニムの部屋から飛び出してきたのは当の佳織。
部屋の奥で「なんだユートか」とでも言いたそうな顔でこちらを睨んでいるニムントールの姿も見える。
二人とも既に寝巻き姿だった。その属性(?)に相応しく、萌葱色のさらっとした上下のニムントール。
もう寝る所だったのか、いつも両側で纏めている髪を下ろしている。意外と長く、それは肩まで掛かっていた。
一方の佳織は淡い薄紫のワンピースっぽいやや幼いものに身を包んでいたが、それがやけにだぶついている。
(…………まさか、ファーのを借りてるのか?それにしては子供っぽいけど)
一瞬思ったが、本人(ファー)の名誉に関わるような気がするので深く考えないようにした。

佳織に腕をひっぱられ、部屋に入る。それにしても、と髪を下ろしたニムントールに新鮮さを感じていると、
「…………なによ」
不機嫌そうにぷい、と目を逸らされてしまった。悠人は床に胡坐をかきながら、言い訳のように話しかけた。
「いやあのさ、ファー、知らないか?」
佳織本人を目の前にして相談相手のファーレーンを探しているという奇妙な事態は、どうも落ち着かない。
切り出してみたのはいいが、同じように床にすわっている二人ともが目を丸くしてこちらをじっと見つめてくる。
その視線が何だか冷ややかな(最もニムントールはいつもの事だが)気がして、悠人は焦った。
「…………なんだよ二人とも」
「あのねお兄ちゃん、お兄ちゃんが知らないのに私達が知ってる筈ないよ?」
「……てっきりユートのトコだと思ってた」
「う…………」
指摘され、顔が熱くなる。言われてみれば最近たまに、ファーレーンは夜を悠人の部屋で過ごしている。
そんな事も忘れる位、悩んでいたのかと我ながら悠人は呆れてしまった。そんな兄に佳織が助け舟を出す。
「それよりあのね、今ニムちゃんと話してたんだけど……」
「あ、カオリ、まだ駄目だってばっ!」
何だか嬉しそうに話す佳織に、何故かニムントールが慌て出す。珍しさに思わず悠人は聞き返していた。
「へぇ、相変わらず仲が良いな。 それで? 何話してたんだ?」
「お兄ちゃんとファーレーンさんの結婚式、いつしようかなって」
「……………………は?」

ニムントールがあ~あ、言っちゃったなどと残念がっているが、目に映るだけで頭にまでは届かない。
ハイ? ケッコンシキ……イツニシヨウカ? ナニヲ? 謎の表音文字が頭の中を駆け巡る。
何故だか嫌な汗が頬を流れた。悠人は妹向けの優しい笑みを向けたまま、その場に凍り付いてしまっていた。
「――――お兄ちゃん? お兄ちゃんってばっ!」
目の前で手の平を振る佳織のアップを認識したところで、ようやくはっと我に返る。
そして我に返ったとたん、物凄い羞恥心が言葉を急き立てた。
「けけけ、結婚? 結婚だって?! 冗談だろ? いやそもそも何でそんな話になってるんだよっ!!」

「…………ユート、イヤなの?」
動揺し、捲くし立てる悠人に何を勘違いしたのか、ニムントールの緑の瞳に怪しい光が走る。
いつの間にか手繰り寄せた『曙光』が主人の意向に忠実にマナを帯びて淡く輝き出していた。
悠人は思わず腰が引けるのを感じながら、それでも必死に弁解した。
「イヤだなんて言ってないだろ? ただファーの気持ちもあるし、大体今は戦いの真っ最中でそれどころじゃ」
「バカッ、ユートッ!!」
「あ…………」

鋭いニムントールの口調に慌てて口を噤むが、もう遅かった。
「うん……戦い、まだ、続いてるんだよね……」
佳織の表情が一気に暗くなる。事態の深刻さは、レスティーナの仕事を手伝っている佳織にも痛いほど判っている。
自分が足手まといなのでは、と思っている事も悠人は薄々感づいていた。ましてや相手は佳織もよく知る瞬である。
無神経な事をつい話題にしてしまった事に、悠人は心底後悔した。
「……ごめん。そんなつもりじゃ無かったんだ」
「ううんううん。私こそごめんなさい、こんな時に。……でもねお兄ちゃん、こんな時だから、なんだよ」
「? どういう意味…………」
「――――だって私、もうすぐ帰らなくちゃだから。その前に、我が侭を一つだけ聞いてもらえないかな」

その一言に、部屋の中が沈黙で満たされた。じじ、と灯りの炎が揺らめく音だけが暫く流れる。
悠人は動けなかった。知っている。佳織は知っていて……そんな想いだけがぐるぐるといつまでも続いた。
「……時深、か…………」
悠人の呟きにこくん、と頷き、黙って窓に顔を向ける佳織。横顔が月の光に青白く映った。
「月が綺麗だね……ね、お兄ちゃん、ファーレーンさんのこと、好き?」
「え、あ、ああ。…………好きだ。離れたくない、と思ってる」
決して視線を合わせずに淡々と訊いて来る佳織の横顔を見つめながら、悠人は懸命に言葉を返した。
答えに満足したのか、一度小さく頷いた佳織がゆっくりとこちらに向き直す。真剣な眼差しだった。
「…………うん。だからね、お兄ちゃんはここに残ってファーレーンさんをちゃんと幸せにしなくちゃダメ」
「でもそれじゃ、佳織が……佳織を独りぼっちにするなんて俺には」
「ダ、メ。大丈夫だよ、私は。小鳥もいるし。それにね……私もちゃんと見つけないと、駄目だから」

少しづつ震えだす声。それでも表情だけは決して崩さず、佳織は話し続けた。
(あの、佳織が……)
幼い頃からいつも悠人の背中に隠れ、何かに怯えるようだった佳織。守らなければ、と思った小さな存在。
そんな佳織が、初めて自分の道を自分で進むと決心し、そして歩こうとしている。突然思い出す、銀色のフルート。
悠人は、焼き付けようと思った。成長し、強くなった妹の姿を。この目に、しっかりと。決して忘れないように。
「私自身の幸せを。独りでも、見つけようと思うんだ――――」

「でもね、最後にお兄ちゃんと『家族』の想い出が欲しいんだ。いつ思い出しても笑えるように」
「佳織…………わかったよ」
胸元にぎゅっと手を当て、思い詰めたように見上げてくる佳織。悠人は堪らなくなり、思わず首を縦に振った。
「ホント?! ……ありがとう、お兄ちゃん」
「ああ……でも約束だ。絶対に見つけるんだぞ」

ん、と頷く佳織が目元の涙をようやく押さえる。悠人は感慨で胸が一杯でそれ以上何も喋れない。
場に、しんみりとした空気が流れる。と、唐突にそれまでただじっと黙って様子を見ていたニムントールが口を開いた。
「という訳でユート、これ以上カオリの心配事を増やさないようにしなくちゃね」
その一言に応えるかのように、佳織の表情に明るさが戻った。
「ふふ。そうだね。お兄ちゃんの花婿姿を見れば私も安心してファーレーンさんにお兄ちゃんを任せられるし」
「ちょっと待てよ二人共、俺ってそんなに頼りないか?」
「頼りないよね」
「ね~~♪」
お互いを見合い、笑いあう二人。ようやく戻った雰囲気に、悠人はほっとして苦笑いを返しながら頭を掻いた。

「あのな。大体まだファーの気持ちを確かめてないじゃないか。話はそれからだろ?」
「あ、それ問題ないから」
「へ? ニム、それってどういう……お、おい」
戸惑いの声を無視して、いきなり立ち上がったニムントールがすたすたと部屋の端の方へと歩いていく。
目で追っていると、そのままこん、こん、と軽くタンスをノックした。妙な流れに悠人は何だか嫌な予感がした。
「な……まさか……」
「ね、聴こえてたでしょお姉ちゃん。だから心配いらないって言ったのに」
瞬間、悠人の全身は再び凍りついた。

「ホラお姉ちゃん、恥ずかしがってないで出てきなよ。ユート、オヨメサンにしてくれるって。よかったね」
ぎぎぎ……とやや軋んだ音を立てながら、部屋の隅に設置してある木製タンスの扉がゆっくりと開いていく。
そこから現れたのは、窮屈そうにしゃがみ込んだまま茹で蛸のように顔中真っ赤にしたファーレーンだった。
「わ、わたし、やめなさいって止めたんですけど…………」
両手を縛られ、外れた猿轡代わりのニムントールの髪結いから、半泣きのまま蚊の鳴くような声で囁く。
(なるほど、だからニムの髪が珍しく下ろされていたのか……)
そんなどうでもいい事を考えながら、悠人はいつまでも開いた口を閉じる事が出来なかった。