朔望

風韻 Ⅴ

 §~聖ヨト暦332年ホーコの月青みっつの日~§

いよいよ明日は佳織が現代世界に帰るという日、悠人は佳織と最後の日常を一緒に過ごした。
それは当たり前な、“向こう”では普通に行ってきた事。普通に出かけ、普通に話をし、普通に笑いあう。
たった一日に凝縮させたそれを大事に胸にしまいこむように、兄妹はおだやかな日差しの中を歩いた。
やがてヴァーデド湖を遠く望む、高台へと辿り着く。佳織はうわぁ、と歓声を上げて悠人にしがみついた。

「ねね、お兄ちゃん、綺麗だねぇ~!」
「ああ、なんたってとっておきの場所だからな」
「んふふ~、ねね、ファーレーンさんはもう連れて来た?」
「どうでもいいけど佳織、何だか口調がハリオンに似てきたぞ。まぁ、連れて来たけどな」
「いいなぁ~わたしもこんな所に恋人さんと来てみたい~」
「な! ま、まさか佳織、誰かいるのか? そんなの初耳だぞっ!」
「も~そんな訳ないよ~。わたし、ずっと捕まってたんだよ?」
「あ、ああ……そうだった」
「ふふ、小鳥にも見せたかったな、こんな素敵な景色……」
眼下は全てオレンジ色に輝く夕暮れ時。温かみのある光が柔らかく風景を包み込む。
目を細めてきらきらと反射する湖面を見つめる佳織の横顔を眺めながら、悠人はふいに哀しくなった。
もう、自分は守ってはやれない。佳織もそれを望んではいない。互いに分かれようとしている道。
それでも何かを見つけようと歩き出した妹に、かけられる言葉を懸命に捜した。
「なぁ、佳織……」
「ん、なに、お兄ちゃん」
「恋人、見つけたら……絶対紹介しろよ。俺がじっくり品定めしてやるから」
「…………くす……お兄ちゃん、まるで姑さんみたい。でも……うん、わかったよ……絶対、だね……」
「ああ……絶対だ……」
絶対に、叶わない約束。少しくぐもった声で、兄妹が交わした最後の約束だった。

 §~聖ヨト暦332年ホーコの月青よっつの日~§

城の庭に設置された、“門”。夜の闇をぼう、と白く染めた大掛かりな機械の前に、皆が集まって来ていた。
「カオリ~! うう゛、もういっちゃうの~!」
「こらオルファ、カオリさまを困らせてはいけません。ちゃんと送り届けて差し上げないと」
「いいんです、エスペリアさん。ごめんねオルファ……でもわたし、絶対オルファを忘れないから」
「オルファも! オルファも絶対絶対忘れないよ! トモダチだから……」
「うん、ずっと友達だよ、オルファ」
佳織は一番仲が良かったオルファリルと抱き締めあい、別れを惜しんだ。
続いて次々とスピリット達が佳織と最後の別れを交わす。
「カオリ殿……忘れませぬ、カオリ殿に教わった事。どうか、お元気で」
「そんな、私なんか何も。むしろ助けてもらってばっかりで……有難うございました。ウルカさんも、お元気で」


やがて人ごみを抜け、装置の前に待つ悠人達の所に行く。
そこにはヨーティア、レスティーナ、ファーレーン、ニムントールも居た。
「カオリ……貴女には、辛い思いばかりさせてきましたね」
「レスティーナさん……ううん、でも、これで良かったんだと思いたいです。私も、お兄ちゃんも」
「カオリ…………どうか、元気で」
「ほらニム、ちゃんとカオリさまに挨拶しないと」
「う、うん…………」
ファーレーンの後ろに隠れていたニムントールがようやく前に出る。
初めて対面した時と同じ仕草に、佳織はくすっと笑った。自分からニムントールの両手を取る。
「あ……」
「ニムちゃん、お兄ちゃんを頼むね。何かしたら、遠慮しなくていいから」
「……う、うん! ニムに任せて!」
「お、おい」
「お兄ちゃんも、ファーレーンさん泣かしちゃダメだよ。ファーレーン、お姉ちゃん……お兄ちゃんを、宜しくお願いします」
「!! ……はい……はい、カオリさま……カオリ……どうか、お元気で……」
皆の前で小さな頭をぺこり、と下げる佳織に、感極まったファーレーンが泣き出した。

一通りの挨拶を終えた佳織が、ふいに全員に振り向く。背後の機械から浮き上がるマナ蛍。
青白く広がる光。悠人はその光景を決して忘れない。目に焼き付けようと思った。
「わたし、皆さんに何のお礼も出来ないけど……せめて、これだけ聞いてください」
そう言って佳織が鞄から取り出したもの。銀色に輝くそれは、銀色のフルートだった。
大事そうにさすり、一度だけ悠人の方を見る。悠人は頷き返した。それを確認した佳織の瞳が静かに閉じられる。
そうしてそっとフルートに口を当て、佳織が奏で始めた曲は。遠くラキオスに伝わる、夜想曲だった。

「カオリさま…………」
ファーレーンの脳裏に、あの日の孤独が蘇る。城の一角、月夜に響いた哀しいメロディー。
顔を上げ、視線を向ける。旋律の中に、視えた気がした。今は変わった佳織の姿が。見えない筈の強い姿が。

 サクキーナム カイラ ラ コンレス ハエシュ
   ハテンサ スクテ ラ スレハウ ネクロランス
     ラストハイマンラス イクニスツケマ ワ ヨテト ラ ウースィ…………ルゥ………………

知らず、口ずさむ。零れ落ちる詩は、フルートの深い音色と相まって、夜空に吸い込まれていく。

この世界に無いはずの奏鳴。舞い落ちるマナ蛍の円舞。
二人は、奏でた。ファンタズマゴリアの詩を。ハイペリアの楽器で。別れまでの、それは最後の安らぎ。
悠人が守り続けてきた笑顔との、別れ。そして守り続けていく泣き顔への誓いだった。

演奏が終わった後の静寂さえも包み込む余韻(リリース)。夜想が呼び込む風韻(かざおと)。
その場にいた全員が、その幻想的な時間を心に刻み込んだ。

「……時間だ、ユート」
「……ああ。佳織」
「……うん」
やがてヨーティアの一言と共に、機械がぶぅん、とうねり出す。
それまで少し離れた所で見守っていた時深が、神剣『時詠』に何かを唱えていた。
「それじゃ佳織、ちょっとの間だけ……お別れ、だ」
「……うん、先に帰って待ってるね……お兄ちゃん」
「ああ、帰ったら、佳織の好きなナポリタンを腹一杯ご馳走してやるからな」
「くす……憶えていてくれたんだ。……うん、待ってる」
白く輝き出す佳織の身体。“門”に吸い込まれていく佳織から、悠人は決して目を逸らさなかった。
ぐにゃり、と歪む視界。耐え切れなかった涙が両目から溢れ出す。
「……お兄ちゃん、今まで有難う……大好きだったよ……」
「ああ……ああ! 忘れるなよ佳織、俺はこの世界でも……佳織を絶対に見守ってるからっ!」
佳織は微笑んでいた。いつもと同じ、少し寂しそうな瞳で。それでもしっかりと、強い意志の籠められた瞳で。


   ――――忘れないよ、お兄ちゃん……――――


耳に残った佳織の最後の言葉を、悠人はその場に立ち尽くしたまま何度も反芻していた。
マナ蛍の影が一つ、また一つ消えていく。折り重なる離別を名残惜しむように舞い散る光の欠片。
ふと、頬に温かい感触。いつの間にか、隣にファーレーンが寄り添っていた。
覗き込むように、なぞるような仕草で悠人の顔に残った涙の筋を優しく追いかける。
「…………泣いて、いるのですね」
「……いや、もう大丈夫だよ。大丈夫……」
悠人はそっと、手に自分の手を重ねた。絡ませた指に、遠くぼやける景色を引き付けるかのように