朔望

風韻 C

 §~聖ヨト暦332年コサトの月黒ひとつの日~§

「ぬぅぅぅん!」
ぶわっと襲い掛かる圧力。褐色の肉体が生み出す真空に、周囲の空間が悲鳴を上げる。
既に気流とか気配とかの問題ではない。凝縮され、鉄塊となった空気の束が纏めて襲い掛かる。
ファーレーンは『月光』の鞘に左手を添えたまま、右手へと横っ飛びに跳ねた。ニムントールの腕を取り、更に後ろに。
「…………お姉ちゃんっっ」
「ニム、下がって!」
そして一瞬前まで居たその地点に、的確に打ち込まれる鉄槌。
どすん、と鈍い音と共に青色の結晶体が弾け飛び、後には巨大なクレーターがまだ残る威力の余韻でぶすぶすと燻ぶっていた。
竦む足を無理矢理動かすように、ニムントールが後方に駆ける。時間を稼ぐ為、ファーレーンはもう一度右に飛んだ。
「ほう、避わしたか……だが」
「!」
タキオスが、巨大な『無我』を振りかぶる。ファーレーンは驚愕と共にウイングハイロゥを畳み、『月光』を抜き放った。
あの巨体で、驚くしかない。タキオスは、充分に取った筈の距離を一瞬で0に戻し、至近距離に迫っていた。

どすんっ!

「あっ……ぐっ!」
『月光』を落とさなかったのが、不思議だった。脳天まで響く衝撃で、全身の骨がばらばらになるような感覚。
ファーレーンは受けた『無我』の重量感に、潰されるように膝を付いた。硬い筈の地面が罅割れ、沈み込む。
このままでは身体が先に砕ける、そう判断し、咄嗟に軸足である右肢にシールドハイロゥを展開した。

「むぅんっ!」
そのままタキオスは力を籠めていく。びちびちと異様に膨れ上がる、『無我』を掴む両腕の筋肉。
先程から、オーラなど使ってはいない。このまま“目覚め”ぬなら、このまま叩き潰そうと思っていた。

「くぅっ…………あああっ!」
みしみしと軋み、悲鳴を上げる腕。それでも、ただ受けるしかない。うかつに避わそうと動けばたちまち潰されるだろう。
身動きが取れないまま、細身の『月光』が危険を察知して頭の中に警鐘を鳴らす。
ファーレーンは歯噛みしてそれに耐えた。噛み締めた奥歯がぎりぎりと血の匂いを噴き出し始める。
「ゆ、ゆる、さ、ない……貴方、だけ、はっっ!!」
眼前に迫る赤い双眸。決して許される筈の無い存在。先王を操り、世界を操り、そして…………女王の心を弄び。
神剣の強制力と相まって、憎しみに染まる心。りぃぃん、ときな臭い死の匂いが心を支配しそうになる。

 ――――闇に目を逸らしていては、剣は振れんぞ。

「!」
呼び覚ますような、凛とした声。瞬間、ファーレーンは我に返った。同時に消える威圧感。浮き上がるようによろめく。
反動で差し出されるように上体が前に出る。その眼前に、仁王立ちのタキオスが猛烈な黒いオーラを溢れさせていた。
意外と粘るスピリットに業を煮やしたかのように、一度離れた『無我』を振り被り直す。
「止め、だ」
そうして振り下ろされた黒の凶器。軌跡が断層を生む。唸りを上げてせまる空気の溝。
虚空への入り口を開きながら死の顎(あぎと)が迫る。重なるように、後方から聞こえる悲鳴。
「お姉ちゃんっっ!!」
「…………う、あぁぁぁぁっ!」

 ――――びぎんっっ!!

必死で跳ね上げた『月光』の刀身が、『無我』の一撃で亀裂を走らせていた。
「あ、ああっ!!」
目前で爆発したマナの塊に、衝撃で吹き飛ばされる兜。その奥、ファーレーンの瞳はまだ死んではいなかった。
咄嗟に受け流そうと、『月光』を斜めに振り下げる。がががっ、と亀裂の先から『月光』の刃が削られていく。
「…………その細身で、よくも凌ぐ」
しかし、タキオスは体勢も崩さない。やや膝を折っただけの姿勢から、横殴りにもう一度片手で『無我』を振るってくる。
ファーレーンは無理矢理地面に『月光』を突き刺し、それを軸に縦にした『月光』で遮った。そしてもう一撃。
再び十字で相交わる刃。ぼろぼろになった『月光』の切先が衝撃と共に弾け飛ぶ。巻き上がる旋風。
ぼこっと沈み込む地面から飛び散る蒼い砂礫。既に、腕の感覚が無い。奪われたマナは光輪すら生成するのも難しいだろう。
ささらのように刃毀れた『月光』が沈黙する。それでもファーレーンはその場で必死に耐えた。
(……負けない…………負けたくないっ!)
もう、それしか考える事が出来なかった。脳裏に浮かぶ、大切な“もの”。わあん、と耳鳴りのような空気の流れ。
渦巻く思考の奔流の中、初めてしがみついた意地。早回しに繰り返される、様々な想い、――――託された想い。
「…………ぐっ!」
刹那、腹部に丸太で殴られたような鈍痛が走る。ひゅう、と毀れる息。口の中に込み上げてくる酸味、鉄錆の匂い。
タキオスが蹴り上げたものだが、遅れてきた痛覚を自覚するゆとりさえファーレーンには無かった。
身を僅かに屈めただけで懸命に苦痛をやり過ごす。刈り取られた呼吸にも、力を抜くわけにはいかない。
無駄に間延びした時間が過ぎる。ただ嬲り殺されるだけの時が着実に迫ってきていた。
「……所詮は道具か」
気息も絶え絶えの様子に、遊び飽きた玩具を見捨てるかのようにタキオスが呟く。ファーレーンはその一言に激しく反発した。
「! そんな……こと、無いっ!!」
絞り上げるような悲鳴が細い喉を震わせた。絶対に肯定出来ない言葉だった。
見えない巨躯に、口元から鮮血を迸らせ。それでも尚利かない視界に向けてきっ、と睨み上げる。――その時、起こった。

 ――――りぃぃぃぃん…………

ファーレーンの叫びにまるで呼応するかのように、突如『月光』が眩い光を放ち始める。
「…………む」
「え……?」
散々に刃毀れを起こした刀身。その表面が、ぱりぱりと音を立てて剥がれてゆく。
その下から浮かび上がる、清冽な刃紋。間歇泉のように噴き出す蒼白いマナ。
鎧われた鍍金のような鋼の“鞘”から現れた真の姿が白銀に輝いて周囲を包み込んだ。


  ――――『月光』が、目覚めてゆく。


永遠神剣とは、その担い手の「心の強さ」に反応し、その能力を増幅させ、また、減衰もさせる。

  初めて対峙したあの時。ただ、絶対的な“無”の前に萎縮し、打ち震えていた。
  再びまみえたあの時。ただ、怒りに任せ、その力に屈した。

……だが、今は違った。眼前の死を前に、恐れず、冷静に彼我の力を見極めた上で、ただ『負けない』。
それだけを強く願い、信じ、貫こうとする心。ファーレーンの意志に、――――『月光』が応えた。

りぃぃぃぃん…………

光芒が、『月光』を包み込む。ぼんやりと蒼かった遺跡が、白く映し出される。徐々に形取る、眩い金色の粒子の波。
壁に映し出される敵の影。対峙する男の輪郭。それらが全て、自らの瞳の奥から、はっきりと判る程に。


 ――――――ファーレーンの視力は、完全に回復していた。

突然、開かれる視界。蒼く飛び込んでくる周囲の景色。痛いほど刺さるような白銀の光。
「あ……ああ…………」
ファーレーンは戸惑った。『月光』と眼、両方を通じての像がぶれながら一致する。
自分自身で体感出来る色彩が明滅しながら織り重なった。戦いの中、隙だらけで辺りを見渡す。
少し離れた先に、気配で悟ったのか、泣き笑いのような表情を浮かべるニムントールが居た。
手元の『月光』を見下ろす。刃毀れも無く、まるで新品のように浮き上がる波紋。優しい共鳴が心に響く。

「ふ、言っただろう。…………その力、全てを見せろ、と」
タキオスは、あえてその間ファーレーンの無防備な背中に攻撃を仕掛けなかった。
それどころか口元には余裕の笑みさえ浮かべ、明らかに下位神剣である『月光』の目覚めに満足げな声を上げる。
しかしファーレーンはゆっくりとかぶりを振り、その言葉をきっぱりと否定した。
「違います……この子は、応えてくれただけ。臆病だったわたしが封じていたものを、ただ開放してくれただけ」
両目から溢れる涙が、せっかく回復した視界をぼやけさせる。
ファーレーンは再び静かに目を閉じた。一粒だけ、雫が落ちた。
「…………何のつもり、だ?」
不審そうな、タキオスの声。ファーレーンは答えた。
「貴方を倒すのに、もう視力などいらない……そういう事です」
冷徹な一言は、しかし不思議な落ち着きと安らぎに満ちたものだった。
身体中に沁み渡るマナ。湧き上がる力に後押しされるように、ファーレーンはウイングハイロゥを広げた。


ニムントールは『曙光』を掲げ、高らかに謳い出した。神剣の先に収束したマナが、緑色に輝き出す。
もう、恐れは無かった。萎縮した体を無理矢理動かす訳でもない。ただ、自分が今すべき事を思い出した。
ファーレーンを助ける。それだけを思えば良い。紡ぎ出す、息吹の呪文。知らず口ずさんだ口元にもう震えは無かった。

――神剣の主が命じる……マナよ、守りの衣となりて我らを包め。ガイアブレス!