§~聖ヨト暦332年コサトの月黒ひとつの日~§
久々の戦い。歪んだ悦びに身を震わせていた筈の『流転』からその意志が失われた時、
メダリオは心の隅を何かが掠めるのを感じた。心臓がぎゅっと縮んだまま絡め取られる。
「んくっ……なんだ、コレ……知らないぞ、こんなのっ!!」
硬直する全身の筋肉。自分の物とは思えない、ぎちぎちと重い体。メダリオは知らなかった。それが、恐怖という感情だと。
「刻まれる恐怖……知ってしまえば、自然と身体はすくむ。防御を忘れるほどに」
すぐ側で、囁くような声。はっと我に返り、咄嗟に膝を付く。右手からの殺気。ウルカが『冥加』を水平に走らせていた。
「恐怖、だと……ぼくが、がぁっ!」
がきんっ! 短く鋭い衝撃。頭を突き抜ける激痛。急に視界が悪くなる。そしてその中に、あった。くるくると回る『流転』が。
「ガ、ガァァアァァァッッ!!」
血煙と共に舞う、メダリオの左手。避わしたと思っていたウルカの攻撃。なのに、何故。メダリオは混乱した。
「てりゃあぁぁぁぁっ!!」
考える暇も無い。疾風のように駆け抜けたウルカの横から、アセリアが飛び出してくる。『存在』に青白い光を靡かせて。
「こ、この……ハァッ!!」
メダリオは、爪先に力を籠めた。片腕を失いバランスの取れない体勢を必死に保つ。
横っ飛びのまま『存在』の切先を見つめ、その初動を見極める。アセリアは、見逃さなかった。
素直に、メダリオが飛んだ方向へとステップする。方向転換は、しかし一瞬の減速でもあった。
「……そこだっ!!」
「…………んっ!!」
どん。
「…………ははっ、なるほど……予想、しませんでした、よ……」
身体に突き刺さった『存在』を見下ろしながら、メダリオは呟いた。本当に、有り得なかった。
止まり、無防備に身体を捻ったアセリアに、メダリオはその回転軸である腹部に『流転』を振るった。
動作中の人間が、一番避わす事の出来ない部位への手加減無しの攻撃。メダリオは、勝利を確信していた。
だがアセリアはその瞬間、『存在』を“投擲”した。
スピリットが、戦闘中に自分の半身ともとれる神剣を手放す。それは、槍型なら当然の戦い方。
しかし見た目両手持ちのアセリアの剣が飛来するなどという事態は、メダリオには想像が出来なかった。
なまじ剣を知りすぎていた為の盲点。その「見た目」に囚われていた彼を、アセリアの発想の転換が上回っていた。
「ですが……それに、しても……」
メダリオは、解せなかった。いかに先程、いきなり周囲のマナが少なくなったとはいえ。
いかに『流転』が沈黙したとはいえ、技量の差は圧倒的。あの程度の攻撃は、始動後にも充分回避出来た筈。
なのに、身体が動かなかった。何かに縛られたかのように、その場に棒立ちのように動けなかった。
――――恐怖。
「そうか、ふふ……なるほど……」
そこで頭を掠める、黒き妖精の台詞。心臓を鷲掴みにされるような、不思議な感覚。
「ウルカ……さんきゅ」
「間に合いました……咄嗟に唱えたテラーでしたが」
側で、二人が声を掛け合っている。テラー。そうか、それが布石の名前か。メダリオは、目を閉じた。
雪の冷たさを、今更ながらに感じる。頬に解けた水が分解されていく身体に心地良かった。