§~聖ヨト暦332年コサトの月黒ひとつの日~§
一瞬とはいえ『時逆』の力を解放した時深は、身体中から力が抜けたように膝をついた。
荒い呼吸に僅かに鮮血が混じる。無理は、承知の上だった。この“狭い”世界で、『時逆』の持つ力は強大すぎる。
そして強大すぎるが故に、その使うマナの量も尋常では無かった。――殆ど自爆とも思える行為だった。
自らを構成しているマナをその貪欲な消費に使い、この世界に召喚した剣を振るったのだ。
自分も恐らく後数刻後にはファンタズマゴリアを去らなければならないだろう。それも、テムオリンやタキオスを残して。
「悠人さん……後は頼みました……」
それでも時深は、この選択を選んだ。自分が消えた後、この世界がどうなるのか全く予想がつかない。
いや、エターナルを4人も残すのだ。恐らく十中八九、この世界は滅びるだろう。
「ンギュルルッッッ!」
異型の叫びが、思考を現実に戻す。それでも信じるしかない。
かぶりを振った後、時深はいかにも面倒だと言わんばかりにゆっくりと振り返った。
「仕方がありませんね……今目の前には貴方しかいないのですから……」
その呟きには、何かこれから戦うはずの相手を憐れむような口調すら感じさせて。
「貴方程度の相手では少々不足ですが……この『時逆』の力、その身で味わいながらこの世界を去りなさい」
「ギュッ!ギュルッンル!!」
程度呼ばわりされ、ントゥシトゥラの身体を包む灼熱がより一層怒りで増大する。
それは、雪が融けるなどといった生易しいものではない。固体が昇華を飛び越え、励起と電離を繰り返す。
プラズマの炎が舐めるように周囲を蒸発させ、王冠形の神剣『炎帝』を示す象徴が今まで以上に輝き始めた。
周囲を、数万度の霧が覆い始める。それはすぐに渦を巻き、そして噴き上げる炎の龍を形作った。
まるで太陽の表面に降り立ったような、紅蓮の世界。そこでは、全ての生命活動が不可能になる。
「永遠神剣第三位……『炎帝』。貴方がいかに物質の第四状態を司ろうとも……その時間ごと、止めてみせます!」
ントゥシトラの周囲に、巨大な魔法陣が赤く燃え上がる。瞬間、時深は動いていた。
ヒュン――――
一閃。
「ギッ?!」
この世界で、唯一行われたエターナル同士の戦い。その結末は、あっけない程一瞬の出来事だった。
「……ですから、この程度、と言ったのです」
びゅっと手に持つ『時詠』を軽く振り切り、扇子形のそれを開く。口元を隠し、時深は凄惨に笑った。
その眼前で、まるでピースが外れていくパーツのように崩れ、消え去っていくントゥシトラ。
短い悲鳴の他には何も残さず、今何が起きたのかを理解する間も無く、ントゥシトラの姿は見えなくなった。
やがて時深はキハノレの方角に振り向き、ふっと表情を緩める。と同時に光り出す身体。
「この世界ではこういう時……そう、マナの導きがありますよう……でした、ね…………」
自己を保てなくなった時深の姿が周囲に溶け込むように薄く白く輝く。
「この世界にも……それから、悠人さんにも……さよなら、かぁ――――――――」
時深の最後の囁きは、ひゅう、と吹いた一陣の風に掻き消された。
どこからか来た粉雪が、名残惜しそうに暫くゆっくりとその周囲を舞い続けていた。