朔望

unison Ⅳ

 §~聖ヨト暦332年コサトの月黒ひとつの日~§

微弱なマナの気流が流れ、目の前の少女が僅かながらに活性化する。
しかしそれを眺めながら、タキオスは軽い失望感に襲われていた。
元々、殺すつもりなら踏み潰すより容易い。それでも何か自分の知らない力を少女は持っているような気がした。
『無我』を通じ、伝わってくる煩わしい蚊のような微少な力。それでも力なら、興味を引かれぬ訳は無い。
ずっとそうして長い時を力の探求にのみ費やしていたタキオスには、このつまらない作戦の中で唯一の悦びといえた。
だからこそ、わざわざ目覚めを待っていたというのに。眼前の敵は目を閉じ、その気配さえも断とうとしている。

「…………いや、これは」
屈み込んだ体勢から弾ける様に飛び込んできたファーレーンに、初めてタキオスは黒く魔法陣を展開させた。
気配が、消えたのではない。さほど速さも感じさせないファーレーンの姿が、ぶわっと陽炎のようにぼやけ出す。
「な、に?」
タキオスの目元から、余裕が消えた。眼前に迫る敵の像が、“左右に増えて”いく。幻覚でも、錯覚でもない。
三体。高速で移動しているかどうかは気配で追える。しかしこの場合、ファーレーンは気配自体を無くしているのだ。
額から、つつーと液体が流れる。汗。肉体が、緊張で萎縮していく。忘れかけていた久々の感覚。
「……ゆくぞっ!」
本体が判らない。ならば。全部倒せば良い。タキオスは隙の多い両手持ちを諦め、右手だけで水平に『無我』を薙いだ。

ぶぅんっ!

何も手ごたえが無く、虚しく空間だけが裂けていく。“像”は、減らない。タキオスは咄嗟に跳ねた。
何かを察知したとか予感に従ったとかではない、ただ言いようの知れない本能的な感覚が彼を突き上げていた。
「なんだ……コレは」
オーラによるシールドが、そこだけぽっかりと元から何も無かったかのように、開かれた正面。
何も考えずに飛んだ筈の正面に、ファーレーンのロシアンブルーの髪が靡いた。手元に引いた『月光』が眩く輝く。
「それが……恐怖というものです」
「恐怖、だと……ぬうっ!」
先程からぴくぴくと細かく痙攣している腕。久々の戦いからくる武者震いだと考えていた。
指摘されて、思い出す。『虚空』の担い手と戦い、敗れた時の感覚。これではまるでアレと同じではないか…………

「う、おおおおっ!」
認められない。こんな、下位神剣に対してこのような感情を持つ自分などは。
本人が自覚しないまま焦燥したタキオスが隙だらけの体勢から剣を繰り出した時、彼の魔法陣が突如消えうせた。
しかし、周囲のマナの消失にも、沈黙した『無我』の声も、重くなった身体にすら黒き剣士は気がつかなかった。

ざんっ!

「…………あ?」
タキオスは、信じられないものを見るような目で、空中の一点を見た。
くるくるとまるで独楽鼠のように軽く舞いあがる不恰好なL字の黒。不自然なほど見覚えのある物体。
ブーメランのようなそれが“自分の右腕”だと理解した瞬間、タキオスは怒りで殆ど我を見失う程激昂した。
「許さぬ……許さぬっ!!」
肉体的な痛みなど、既に凌駕している。きな臭い血の匂いなど嗅ぎ飽きた。ぎりぎりの死のやり取りなどむしろ喜び。
だがしかし、この状況が許せなかった。敵と認めながら、どこか侮ってきた自分。その油断がこの結果を生む。
いつ斬られたのか、判らない。この未知な剣術に、それを知りたいと思う余裕も最早無かった。あるのは唯、純粋な殺意。
タキオスは身を捻り、空中で舞っている右腕をがっ、と残った左腕で鷲掴みにした。そして反動のままそれを振るう。
剣を握り締めたまま硬直した右手の先で、『無我』がまだ光っていた。黒く放つオーラフォトンビーム。
それでこの茶番劇を、全て終わらせるつもりだった。

ぶおん、と自分より頭一つ高い相手の腕を斬り落とし、着地したファーレーンに重量感が襲い掛かる。
頭上斜め右。それを気配だけで確認しながら、ファーレーンは尚冷静だった。
その運動自体が行われつつある回転軸。その中心に、影を見る。『月光』の剣先と結ぶスカラー。延長上にある標的。
目を閉じる事で、研ぎ澄まされる感覚。“目覚めた”今のファーレーンにとって、威圧感はむしろ判り易い攻撃気配だった。
唯一点を貫こうと意識するだけで自然に動き出す身体。先の先。ミュラーの教えが正解を導き出す。

ざんっ!

再び繰り返される、先程と同じ攻撃。今度は右腕ごと左腕をもっていかれたタキオスは、
ようやく戦いの最中、ずっと感じていた脅威の正体を思い知った。

「…………『一貫』」
両腕を失い立ち尽くすタキオスの脇をすり抜け、着地したファーレーンは膝をつき、ゆっくりと目を開いた。
くらっと眩暈を感じ、頭を振る。速度を感じさせない速度。それを体現する為には身体にもそれなりの負担がかかる。
ダメージは無いものの、精神的な疲労が水を吸った真綿のように圧し掛かる。呼吸が乱れていた。

タキオスは、既に没我していた。大量にマナを失った身体が悲鳴を上げる。猛烈な飢餓感が理性を削り取る。
マナが、足りない。転がった『無我』の、同調した強制力が流れ込んでくる。顎を上げ、仰け反った。
ここには、マナが無い。何故、とは考えず、ただ求める。砂漠の中で、オアシスを探すように。
「…………」
無言で首を捻った先。小さな細身の背中が映る。ロシアンブルーの髪に、黒く纏う衣装。微かに上下する肩。
しかし、そんな事は今はどうでも良かった。“それ”は、彼が今求める瑞々しいマナを豊富に湛えていた。
下半身から、ぞわぞわと複数の意志が膨れ上がる。蛇のようにうねるそれが、一斉に“餌”を求めて飛び出した。

「え…………きゃあっ!!!」
最早神剣を使った攻撃はない、そう考えたのは明らかにファーレーンの油断だった。
気配は捕捉していたものの、予想外の攻撃に、咄嗟に身体が反応しない。逃げようとした足首が同時に絡みつかれる。
倒れかけ、ささえようとした右腕、肩。腰の辺りに滑った感覚。逃れようと振るった左手から、『月光』が叩き落される。
からからと回転しながら部屋の隅へ弾け飛ぶそれを追っていた視線が、ふいに浮き上がった。
ファーレーンは四つんばいの姿勢のまま、無数の触手によって持ち上げられていた。

「マ、ナだ……マナヲ……ウバエ……オカセ……」
血走ったタキオスの目が、怯えるように首だけ曲げてこちらを窺うロシアンブルーの瞳を捉えた。
恐怖に揺れている瞳の色を見た途端、言い知れない悦びが心の底を突き上げる。
それに呼応した触手がファーレーンの身体中を嘗め回し始めた。
「な、なに……いやぁっ!」
悲鳴が、木霊する。全身が蹂躙を受けていた。ぞわぞわと生温い触覚に、ファーレーンの白い肌全体に鳥肌が立つ。
抵抗しようと暴れた四肢が、更に複数の触手によって絞られた。同時に両胸にも巻きつく様に食い込んでいく。
「あ…………あ…………うっ」
マナが、吸い取られていた。全身から急速に力が抜ける。血の気がさーっと引いていく、貧血のような感覚。
ぐったりとしたファーレーンの腰を、ぐい、と一本の触手が力強く持ち上げた。

「うあ、あ……」
抵抗の熄んだファーレーンの下半身をこちらに向けて突き出すような形にさせたタキオスは、最後の仕上げに入った。
朦朧としている意識の中、蠢く最大の欲求を具現化する。タキオスの腰からずずず、と現れる今までで最大の触手。
赤黒く、グロテスクなそれによって少女の胎内に潜むマナを味わい尽くす。その愉悦を想像しただけで、脳内が痺れた。
興奮が、穂先に同調してぴくん、と波打つ。タキオスは衣服ごと貫こうと、ぐっと腰に力を籠めた。

どんっ!

「…………ぐ、ふ」
「……お姉ちゃんに、触るな」
すぐ背後から、声。荒い息遣い。タキオスは、振り返ろうとして、気づいた。“胸元に生える”一本の槍に。
ずくん、と何かが抜け落ちる。蘇ってくる自分自身。急速に鎮まっていく心。反比例して崩壊していく肉体。
「お姉ちゃんに…………触るなぁっっ!!!」
「う、ぬおぉぉぉっ!」
ばしゅっ! 緑色の閃光が、辺りを激しく照らし出す。『曙光』から弾けた雷がタキオスの体内外で同時に踊った。
神経が化学的に防衛反応を起こし、あらゆる筋肉を収縮させる。触手など保てるものでは無かった。
動かないファーレーンを放り投げ、ぐずぐずと崩れるそれを攻撃に向けようとする。しかし何もかもが遅すぎた。

「精霊よ、全てを貫く衝撃となれ……エレメンタルブラストッ!」
ニムントールを中心にして噴き出した緑雷は、タキオスの体内で爆発した。
内側から壊される異様な衝撃に、咄嗟に残った足でニムントールを蹴り上げる。
「ぐぅ……っ!」
くぐもった呻きを上げ、ニムントールは転がった。ごむまりのように弾み、動かなくなる。
気絶した小さな身体を確認した後、タキオスは冷静に自分の身体を見下ろした。

『曙光』が、未だ残されている。ぽっかりと空いた胸の焦げ臭い空間で、まだばりばりと細かい放電を繰り返して。
まったく考慮に入れてはいなかった。今まで、神剣の位だけで押さえつけていた相手の敵愾心。
その圧倒的な開きに、甘えていたのかも知れない。恐怖を乗り越え、立ち向かってくる小さきもの。
それに、自我も持たない神剣が、ここまで主の心に忠実だとは考えもしなかった。
タキオスは今はっきりと敗因を悟った。自分に足りなかったもの。それは、畏れの克服。
少女が『一貫』と呼んでいた剣技など枝葉に過ぎない。立ち向かう姿勢、それこそが見えない力だったのだ。
「ふ…………礼を言うぞ……」
肉体が砂塵のように崩れていく。『曙光』の応えを感じ、タキオスは薄っすらと口元に笑みを浮かべたままこの世界を去った。