朔望

風韻 D

 §~聖ヨト暦332年コサトの月黒ひとつの日~§

「ここは……」
悠人は、ふと目の前に飛び込んだ景色に我を取り戻した。
一瞬だった筈の浮遊感に、まだ身体が揺れているような気がする。ぼんやりと、蒼い空間だけが自覚できた。
「ふふふ……お目覚めですか、坊や」
「! テムオリンっ」
今度こそ、目が醒めた。『求め』を両手で持ち直し、睨みつける。虚空に浮かぶ、白い少女に。
「く…………みんなをどうした」
出来るだけ声を低くして、震えを抑える。正直、こうして対面しているだけで、生きている心地がしなかった。
ただ浮かんでいるだけの、あどけない表情で囁いてくる少女。なのに、こんなにも身体が動かない。
「大丈夫、ちゃんと送り届けて差し上げましたから。それにしても…………」
「…………?」
テムオリンの視線が、ちら、と『求め』に向いた。暫く不思議そうに首を傾げ、ゆっくりと微笑む。
悠人はその表情にぞっとした。まるで幼子がこれから踏み潰す蟻をみているような、そんな残酷な笑みだった。

「おかしいですわね。確かに飲まれた筈でしたのに。まぁ、あの程度の男に何を期待するものでもないのですが」
「あの、男……?」
「ええ。ちょっと留守の間にすぐ側に使えそうな国が出来ていたものですから。サルドバルト……といったかしら」
「! な、まさか……お前が?!」
ぎり。奥歯が軋んだ音を立てる。脳裏に浮かぶ、あの雷鳴の夜。飲み込まれた、ダゥタス・ダイ・サルドバルト。
「上手くいきませんね、色々と。まぁいいですわ、こうして最終的に、駒は揃いましたし」
「こ、ま、だと……ふざけるなっ! この世界を何だと思ってるんだ! 俺達はお前らの玩具じゃないっっ!」
悠人は、吼えていた。今まで感じていた矛盾がぴったりと当てはまる感覚。こいつが。もう、怒りを抑え切れなかった。

一瞬きょとん、としたテムオリンが、すぐにくくくと喉を鳴らす。
「ふふふふ……こんなに可笑しいのは数周期ぶりですわ……お礼に、せいぜい――――」
しゃらん。持ち上げた錫杖のような神剣に膨大なマナが流れ込み、やがて複数の剣を形取る。
周囲を一斉に取り囲んだ剣のシールドの中、テムオリンは凄惨に微笑んだ。
「――――教えて差し上げましょう、身の程というものを。永遠神剣第二位『秩序』、その力をもって」

しゃらん。軽く翳した『秩序』の先、地面と垂直方向の円を描き漂っていた複数の剣が一斉に悠人を敵と判断する。
剣先、そして矛先を向けられた悠人は『求め』の力を最大限に引き出した。作り出した魔法陣がテムリオンのそれと衝突する。
同時にテムオリンの小柄な身体が身に纏うローブを翻し、『秩序』を斜めに振るった。
不気味なほど清冽なオーラが舞い上がる。それが合図だった。それぞれが意志を持ったように、放射状に襲い掛かる剣達。
「ぐっ!」
悠人はその一本目すら目で追えなかった。ざくっと太腿に鋭い痛みが走る。しかし膝をつく暇も無い。
続いて飛来する槍がバランスを崩した右肩を削り取り、鮮血を巻き込んだ疾風のような短刀が左腕に食い込む。
「うっ、ぐっ、かはっ!!」

ドドドドドッッ!

まるでハリネズミのような攻撃に、悠人は為す術が無かった。致命傷を避けるように両手で身体を庇う。
その隙間を、ただの打突だけが襲い掛かる。『求め』で偶然弾いた剣が翻って喉先に迫り、そしてぴたり、と止まった。

「…………つまりませんわ」
ざっと全ての剣を周囲に引き戻し、テムオリンが呟く。実力の差は最初から話しにならなかった。
テムオリンの一撃は、それだけで殆ど悠人の体力を削り取っていた。
「ぐっ……くそっ……!」
これだけ受けていながら、傷は一つも死に至るものでは無い。まだ戦えるだけの力も残っている。
それでも悠人は歯噛みをし、悔しそうに呟くしかなかった。近づく事すら出来やしない。まともに戦ってもいなかった。
蟻が象に立ち向かうという喩えを思い出してしまう。冷ややかなテムオリンの表情が、それを物語っていた。

「時間の無駄ですわね」
睨み上げてくるエトランジェに、テムオリンは最早興味を失いかけていた。
弱い。精一杯加減した攻撃すらこれではいたぶるのも面倒臭い。ラキオスで対峙した時の予感は間違いだったのだろうか。
少しは楽しめるかと思ったが、とんだ期待はずれだった。この世界での全力を出すまでも無い。
テムオリンは軽い失望と共に、止めを刺そうと『秩序』を持ち上げた。
「もう少し遊んでも良かったのですけれど…………え……?」
「…………?」
しかしその時突然、テムオリンの身体に異変が起こった。がくん、と身を震わせる。
「これは……『時逆』! まさかこの弱小なマナで、あれを召喚したと言いますのっ!」
急速に重くなる体。剣達の光芒が次々と霞んでいく。抜けていく力に、テムオリンは舌打ちをした。

「……まあいいですわ。これであの邪魔者はこの世界には居られなくなったのですから。結果オーライという事ですわね」
相手が悠人のせいかしきりに現代世界の言葉を使いつつ、テムオリンは喉の奥を鳴らし、気を取り直した。
「…………安心なさいな。せめて苦しまないように殺して差し上げますから」
そしてかろうじて剣を構え直した悠人に『秩序』をかざし、冷たくそう言い放つ。
蔑むような口調で見下ろす瞳に青白く残虐な炎が宿り始めていた。
まるで、平気で蝶の羽をむしる子供のような。可笑しそうに僅かに上げた口元が、愉悦の表情を浮かべていた。

為す術無く、それでも『求め』を構えた悠人に圧倒的なプレッシャーが襲い掛かる。
「さて……それではごきげんよう、身の程知らずのエトランジェ」
しゃん、と『秩序』が振るわれたとたん、テムオリンの周囲に浮かぶ六本の神剣が瞬時に姿を消した。
余りの速さに捉え切れないそれらは、ただ邪悪な気配を撒き散らしながら悠人の周囲を回り始める。
「なっ!」
「ふふふ……。こういうのを、何と言いましたかしら?」
楽しそうに首を傾げるテムオリンに、しかし悠人は全く動けない。
「くっ……おいバカ剣、何とかしろっ!」
「……そうそう思い出しましたわ、――――ロシアンルーレット」
ようやく思い出したと芝居がかってぽん、と手を打ったテムオリンが、低く告げた瞬間。
悠人の背後、死角から一本の神剣が確実に心臓目がけて飛来していた。

「うぉぉぉぉっ!」
手元の『求め』にどれだけ精神を集中しても、マナが足りないせいか、『求め』はぴくりとも反応しない。
どこからか猛烈な殺意が迫っているのはぼんやりと掴めるが、それだけだった。
「ちくしょう!ここまで来てっっ!」
それでも挫けそうな気持ちをなんとか奮い立たせ、何かに縋りつくように叫ぶ。――その時、だった。

 ――――右だ、悠人

「…………え?」
殆ど、反射的だった。声に反応し、咄嗟に身を捻る。そのすぐ脇を焼けるようなオーラが突き抜けていった。
悠人は最小限の動きだけで、テムオリンの攻撃をかわし切っていた。

「…………なっ?」
驚いたのは、テムオリンも同様だった。信じられない、というように一瞬目を見開く。
「く……往生際の悪い」
気を取り直し、やや冷静さを欠けた仕草でもう一度『秩序』をかざす。
混乱している悠人を目がけ、今度は二本同時に、別方向からの攻撃。
ひゅんっ、と其々に風を切り、飛び去る刃(やいば)。これをエターナル以外に避わされた事などはない。
いくら極端にマナが不足している今の状況でも、テムオリンにとっては絶対の攻撃のはずだった。

一方の悠人も、呆然としていた。
突然頭の中に響いた声。忘れる事などない、懐かしい口調。

 ――――真っ直ぐ下がって!悠っ

今度は、よりはっきりと聴こえた。悠人は思いっきりバックステップした。
目の前を神剣の残像だけが駆け抜け、空気が獰猛な爪で引き裂かれる。
衝撃に、びりびりと震える頬。制御を失ったマナが暴走を始めていた。
しかし今の悠人には、それらの現象が見えていなかった。
「あ…………ああ…………」
ただ、嗚咽を漏らしていた。ただ、涙を流して。
「光陰……今日子…………」
そう呼びかけている悠人の手元で、黄緑色に輝き出した『求め』が紫の雷を迸らせ始めていた。

テムオリンは、既に全力で神剣を操っていた。
逆巻くオーラを渾身で振るい、あらゆる方向から目では追えない筈の攻撃を執拗に繰り出す。にもかかわらず。
「そんな……有り得ないですわ……」
目の前で、ひゅんひゅんと竜巻のように渦巻く高位神剣の群れ。その中央にいながら、男は傷一つ負ってはいない。
「…………っ!!」
しかもいつの間にか、男は“目を瞑って”いた。視覚を自ら閉ざし、その上で自分の攻撃をいなしている。
ゆらゆらと小馬鹿にしているようにも見えるその動きに、テムオリンは逆上した。
ここまでプライドを傷つけられたのは初めてだった。
全ての神剣を一度手元に手繰り寄せ、そして最強の呪文を唱え出す。
いたぶり殺すという当初の予定を今度こそはっきりと変更し、いっきに叩き潰すつもりだった。
「徹底的に可愛がってあげますわ……嫌というほどに、ね」
自らに言い聞かせるように暗示をかける事で高めるオーラ。それにより紡ぎ出される神剣魔法。
不遜なエトランジェなど百回でも消滅させてなお余る力。しかしそれは、遂に発動させる事が出来なかった。

「え…………?」
雷撃を纏った『求め』を翳し、予想外の速さでエトランジェが殺到してきていた。
有り得ない。あの剣に、この坊やにそんな力が有る筈が無い。反撃の間に合わない間合いの中、そう理性が否定していた。
一方で歴戦が培ってきた勘は、この場は一旦退かないと危険だと告げている。

「うぉぉぉぉぉっ!!!」
「……ばかなっ!」
迫るエトランジェが翻す『求め』が、紫色に輝いている。
鎧っている黄緑色のオーラが混じり合い、咄嗟に破る方法が思い浮かばなかった。
しかしテムオリンは、退かなかった。プライドが許さなかった。本能が必死で鳴らしている警鐘を、素直に受け取れない。

――――ただの駒に、背を向けて逃げるなどとは。

それが一時的であるにせよ、敗北を認めるのだけは絶対に我慢がならなかった。
ここに来て、テムオリンは理性的な判断を失った。同時に、オーラフォトンの光が消え失せる『秩序』。
冷静な分析よりも、感情を優先させる。そんな事が、『秩序』に力を与える訳がなかった。

ざしゅぅぅぅぅ…………

体当たりをするようにぶつかってきた悠人の身体に接触したテムオリンは、ようやく敗因に気がついた。
纏わりつく意識が濁流のように押し寄せて、テムオリンの思考の中をしきりに明滅している。
「か、は…………」
ゆっくりと、自分の腹部を貫く剣を見下ろす。その周囲から、既に肉体は崩壊を始めていた。
「そう……・・三本、でしたの……」
あらゆる状況が、不利に働いた。
完璧に動かしていた筈の駒が、どこから勝手に主を無視して飛び跳ねるようになったのだろう。
彼らにとっては恐らくは理不尽な、全ての駒が女王(クイーン)に傅くよう塗り替えておいたチェス盤の中で。
「この世界から、消えろォォォォッ!!!」
ただ一人、騎士(ナイト)のままでいる事を貫いた青年がいた。そして、それを守ろうとする意志が剣に宿っていた。
「ほんとうに……可愛らしい坊や“達”だこと…………」
テムオリンは薄っすらと諦観の表情すら浮かべながら呟き、そして虚空の中へと静かに消滅していった。