朔望

風韻 Ⅹ

 §~聖ヨト暦332年コサトの月黒ひとつの日~§

『契約者よ、戦いは終わった』
「……ああ」
舞い散るマナ蛍のような輝きを見つめ、悠人は短く答えた。もう、エターナルはいない。
『再生』に集まっていたマナが方向性を失い、様々な軌跡を描いて開放されていく。
朱、白、蒼、そして……緑。胸にぎゅっと握った手を当てる。不思議に涙が零れない。ただ、苦しい。
振り返った時の、短い緑柚色の髪と瞳。少し不機嫌そうな顔。佳織と対面した時に見せた恥ずかしがりよう。
同じレベルで小突きあった想い出が溢れ出してくる。ちょっと気難しく、そしてそれより何倍も可愛い、新しい「妹」。
そんな妹を失った喪失感。虚しさだけが残される戦い。悠人は虚ろに『再生』を見上げた。

『貴方は、信じられますか?』
「…………え?」
唐突に響く、声。頭の中に語りかける口調はどこまでも穏かで。
『強さを……その剣を握る、真の意味を』
永遠神剣第二位、『再生』。“彼女”は優しく、まるで心の中をそっと撫でるように問いかけていた。
風の吹き抜ける草原のイメージ。転がるような滑らかな囁き。温かい、光に満ちた音色。
『貴方は…………大丈夫、ですか?』

 ――――なら、大丈夫。

「…………ああ。大丈夫だ……バカ剣は意外にいい奴だから、な」
『……フン』
「それに……俺はまだ、約束を果たしきってはいない。託されたんだ。――――大事な妹に」
ぶわっ、と耐えていた涙が溢れる。悠人はそれを拭おうともせず、未だ蹲ったままのファーレーンの肩にそっと触れた。
ぴくっと跳ね上がる背中。華奢な身体がゆっくりと振り向く。恐る恐る、上目遣いの表情がくしゃっと歪んだ。
「う…………うわあぁぁぁぁっ!!!」
ファーレーンは悠人の胸に飛び込むなり、激しく泣き叫んだ。まるで子供のように、掴んだシャツをぐしょぐしょに濡らして。
悠人はその背中を、そっと優しく両手で包み込んだ。柔らかいロシアンブルーの髪に顔を押し付け、静かに囁く。
「泣くなよファー。泣いたら……俺が、ニムに怒られちまうだろ…………」
「ああっ、ああああああ………………」
ファーレーンの慟哭が響き渡る再生の間。その中心を、ゆっくりと『再生』が沈んでいった。

 §~聖ヨト暦332年コサトの月黒ふたつの日~§

キハノレの入り口で悠人とファーレーンは仲間達と合流した。お互いの報告を終え、帰途に就く。
皆の雰囲気は決して戦勝者としての軽い物ではなかった。失ったものの大きさが、改めて足取りを重くする。
ネリーなどは真っ赤に目を腫らしたまま、時々誰も居ない地点を振り返りつつ、シアーに袖を引っ張られている。
火の消えたように大人しいオルファリル。じっと俯いたまま一言も喋らないヘリオン。
年少組にとって、初めて仲間を失った戦闘。それは、悲しみ以上に自分達の存在を考えさせる、初めての経験でもあった。

「……ネリー、絶対に生きるよ」
誰にとも無く、蒼い瞳の少女が呟く。声に振り返った皆の驚いたような表情の中、きゅっと小さな手を握り締めたまま。
「ネリー、生きるっ! 絶対に、絶対に……ニムの分まで生きてみせるんだからぁっ!!」
「……うんっ! オルファだって! もうこんなの、嫌だからぁっ!!」
「そうですよね……そうですよ、こんなの……もう嫌ですっ!」
次々と叫び出す少女達。悠人は、空を見上げた。嘘のように晴れ渡る空。中空に浮かぶ太陽は、穏かな日差しを湛えていた。

ぎゅっと袖口を引っ張られる。先程まで手を引いていたファーレーンが、ようやく顔を上げていた。
りんごのように真っ赤に染まった頬、目尻。不安そうに見上げてくる瞳が何かを求めて激しく揺れ動いている。
まだ涙の跡が残っている長い睫毛に微かに光る小さな雫。悠人はそっとその髪を撫でた。
「……一緒に、背負おう?」
たった一言、そう告げる。余計な言葉は必要無かった。ただ、伝えた。一番伝えたい事を、一番大事な人に。
ファーレーンは何も言わずに頷き、そっと悠人の胸に顔を埋めてくる。細く震える肩。悠人は黙ってそれを受け入れた。

時深はついに戻っては来なかった。使命を果たしたとでもいうのか、忽然とその記憶さえも朧気に霞んでいく。
悠人は空を見上げた。包み込むように木霊する少女達の誓いの言葉。
目に眩しい辺り一面の雪景色と降り注ぐ陽光、そして空に還る様々なマナがその光景を見守っていた。

 §~聖ヨト暦332年コサトの月黒よっつの日~§

「……やぁ」
「……ごくろうさまでした、ユート」
ラキオスの王城で、交わした言葉はこれだけだった。公にしている訳でもない戦いに、祝勝などと浮ついたものはない。
厳粛に、まるで通夜のような雰囲気が謁見の間を包み込む。この場に措いて、無駄口を叩く者など誰も居ない。
重臣達は皆押し黙り、目線を薄く下に向けたまま、赤い絨毯を見つめていた。ただ、疲労感のような虚しさだけが満たす。
人とスピリットの共存。この重苦しい結果に、彼らは皆自分の感情に戸惑った。少女の死と引き換えに、得た未来。
ラキオスが小国だった頃、誰がこの感情を理解しえただろうか。彼らは今、純粋に自分の不甲斐なさを嘆いていた。

レスティーナは、立ち去る背中に向かってたった一言呟いた。

「ちゃんと……私、ちゃんと頑張るから、だから、これだけは……」
大きな背中。そこに背負うのは、大きな悲しみとたった一つの存在だけ。
「ごめんなさい、ニムントール、ファーレーン……おかえり、ユートくん……」

ぎぃ……ばたん

廊下へと続く扉が軋んだ音を立てて閉じた。


「あ…………ユートさま…………その」
「ファー、お待たせ」
廊下に出た悠人は、すぐに不安そうに立っているファーレーンを見つけた。
キハノレ以来、ファーレーンはずっと悠人の側を片時も離れようとしない。今もとことこと駆け寄ってくる。
一人でいるのが辛いというのもあるが、離れるという行為を敏感に恐れるようになった。
悠人はそこまででは無かったが、ファーレーンの気持ちは痛い程判る。優しく微笑み、白い手を取った。
「あ…………」
「さ、行こうか。今日はもう、用事は何も無いからさ」
安心したように、それでいて疲れたような不安の翳を常に帯びているファーレーンに胸が締め付けられる。
それでも悠人は痛みを押し殺し、一方的に微笑み続けた。一緒に背負う、その約束を今度は自分が守る番だから。

 §~聖ヨト暦332年ソネスの月青ふたつの日~§

ラキオスに帰還して、数日後の事。悠人はヨーティアの新発明、『抗マナ変換器』の始動に立ち会っていた。
「まぁこれで理論上マナはエーテルとして消費出来なくなる訳だが……おい、聞いてるか、ユート」
「え? あ、ああ。もうこれでマナは無くならない、スピリットも戦わなくて済むんだよな」
「あー……何だか飛躍した理屈だが、まぁ、長期的にみればそうなるだろうさ。レスティーナ殿が尽力すればね」
「そうか、そうだよな……レスティーナなら、でも大丈夫だ」

「…………あのなユート。そのいつも以上にボンクラな頭はいいとして、何か悩みでもあるのか?」
がしがしと頭を掻きながら、ヨーティアは馴れない台詞を口にした。『求め』をじっと見ている悠人。
その雰囲気に、何か妙な空気を感じたのだが、悠人は意外なほどさっぱりとした表情を急に浮かべる。
「いや。ヨーティアにも世話になったな、と思って」
「…………へ? な~に言ってんだい今更。この大天才さまにとってこの位……なった? おいユート?」
「ああ。もう大丈夫なんだ、ヨーティア。だから」
ばつの悪そうに視線を逸らし、鼻をかく悠人。ヨーティアは一度目を丸くし、そしてじっと悠人の顔を覗き込んだ。
「な、なんだよ」
「……いや。いい顔になったな、ユート。いや……ユート殿。本当は私が押そうと思ってたんだが……」
そう言って、すっと差し出す小さな箱のようなもの。悠人は暫くそれを眺め、そして指を差し出した。

ぶぅぅぅぅぅん…………

起動する抗マナ変換器。重く響く音を背中に、悠人は黙って研究室を出て行った。
その扉をじっと見つめていたヨーティアが、誰も居ない空間に向かって呟く。
「やれやれ、あんなのでも居なくなると寂しくなるねぇ……くす、まるでアンタが消えた時のようだよ」
そうしてどこか遠くへと想いを馳せるように、ヨーティアは小さな眼鏡の奥でそっと目を閉じた。

 §~聖ヨト暦332年ソネスの月青みっつの日~§

「そう……ですか」
「ああ、みんなへはエスペリアから伝えておいてくれないか? 薄情だとは思うけど」
「そんなっ……そんな事は、ありません、けど……ですが……」
悠人は第一詰所の裏にエスペリアを呼び出していた。両手で顔を覆う彼女に差し出しかけた手をそっと引き戻す。
暫く、そのままでいた。すぐそこに迫る木々が、さやさやと風に嬲られ、葉を擦らせる。
今日も、良く晴れていた。雲が細かく千切れ、流されていく。同じ風が二人の間の時間をゆるやかに流れていった。
「エスペリアには、良く助けられたよな。何も知らないこの世界で、本当に世話になった……ありがと、な」
はっ、と顔を上げる気配。悠人は空を見上げたまま続けた。今エスペリアの顔を見るのは、反則のような気がした。
「だから、その……エスペリアにだけには、ちゃんと言っておきたかった。皆にも感謝してるけど、その……姉さん」
「…………え? ユ、ユートさま?」
「エスペリア姉さん……行ってきます」
「あ…………は、はい…………行ってらっしゃい、ユートさま……ユート」
悠人は一度手をぐっと突き上げ、そして振り向かずに歩き出した。その大きな背中を見つめていた視界がぼやけ出す。
エスペリアは白いエプロンの裾をぎゅっと握り締めて、涙に耐えた。決して俯かずに悠人を見送る。
「ずるいです、ユート様……そんな風に言われたら、わたくしは…………わたくしは、止められないじゃないですか……」
悠人が立ち去った後の、エスペリアの呟き。誰も聞いていない一言が、冷たい雫と共に地面に吸い込まれていった。

「ユートくん……どうか、元気で……」
執務室の窓際。レスティーナは、黙って森の方角を眺めていた。その向こう、イースペリアから、風が吹いてくる。
止める事は出来なかった。四日前、謁見の間で交わした一言。それだけで、判ってしまった。
大きな、黒い瞳に宿っている、強い決心を。その更に奥深く根付く感情と意志を。
何も声を掛けられなかった事に、後悔はしていない。理性では、判っている。託された、未来。
自分はそれを果たさなければならない。幼少の頃、優しいアズマリア女王と共に誓い合ったあの一言。

 ――――人と、スピリットの共存――――

レスティーナは左手で前髪を掬い、そっと窓際を離れた。拍子に、一枚の紙がぱらりと落ちる。
目に飛び込んでくる、一人の名前。――――ファーレーン・ブラックスピリット。


未来を切り開いたもう一人の少女の、それはかつての oratario ――聖譚曲―― だった。