朔望

kadenz

 §~西暦2008年12月19日~§

戻ってきた世界では、時間が全然流れていなかった。
私は普通に小鳥に迎えに来てもらい、混乱しながらも学校に向かう。
「ほらほら佳織ぃ、遅れちゃうよ~?!」
「ちょ、ちょっと待ってよ小鳥~!」
慌てて靴を履き、玄関を出る。ふと家の表札に目が止まった。

『高嶺 佳織』

たったそれだけ。お兄ちゃんの名前が無い。時深さんが“そう”したのだろう。
判ってしまう事が、これほど残酷なのだと思い知る。そっと指でなぞると、ひんやりと冷たかった。

小鳥の話を総合すると、私はずっと一人ぼっちでこの家に住んでいるらしい。
お兄ちゃんの名前も、そしてその存在さえも、小鳥は憶えていなかった。
冷静に。そう思っても、寂しさは消えない。私の記憶までは消さなかった時深さんに感謝する。
これが私の背負う運命なのだから。お兄ちゃんが居なくても、この世界でちゃんと独りで頑張る。
そう約束したのだから。それだけが、今の私が紡げるお兄ちゃんとの絆だから。

「も~なにやってんのよ佳織~!…………あ、秋月、先輩?」
「え……?」
思いがけない小鳥の言葉。まさか、と振り向く。
そこに、学園の制服を着たままぼんやりと立っている秋月先輩がいた。
小鳥が怖がるように、私の後ろに隠れる。何故先輩が? 何故小鳥が憶えているの? 私は完全に混乱していた。
「あ、か、佳織……」
憔悴しきっているような先輩の表情には、あの傲慢な向こうの世界での自信溢れる態度が微塵も感じられない。
一体何があったのだろう。怯えるような視線は決して私と合わせようとはしていなかった。
憑き物が抜け落ちたような瞳。それはまるで捨てられた仔犬のような、酷く何かを恐れているような瞳だった。

――――どこかで、きっとどこかで、見たことがある仕草……

「秋月先輩……あの」
「謝って済む事じゃないのは判ってる……でも、謝らなきゃいけないんだ、僕は」
「え…………」
「負けたよ、悠人に。負けただけじゃない、助けられた……あのイカレた神剣から」
「お兄ちゃん……よかった……」
ほっと胸を撫で下ろす。お兄ちゃんは、勝っていた。自分の運命に。ようやく手に入れた、自分自身の運命に。
「僕にはもう、佳織を守る資格は無い。いや、最初から無かったんだ、アイツが……正しかった」
「先輩……いいえ、お兄ちゃんは正しくなんかありません。正邪なんて考えてなかったと思います」
「…………そうか、そうだよな。アイツはアイツなりにちゃんと抱えてた……僕も、ちゃんと探すよ。…………さよなら」
「あ…………」
それじゃ、と歩き出す秋月先輩。その背中に、病院での寂しそうな姿が被る。そう感じた時、私は思わず――――

ぎゅ。

「…………佳織……?」
「あの、もしよかったらですけど……一緒に、えと、学校行きませんか……?」
「……いいのかい? でも、僕は……」
「ううん、ホントはまだ少し怖いです。でも……やっぱり先輩、泣きそうだから……あの時と同じだから」
服の裾を掴みながら。俯き、小さく囁いた。震えるかと思った指は、ちゃんとしがみついている。
大丈夫。私はもう大丈夫だから。だから、探そう。私の、私だけの運命を自分で切り拓いてみよう。
その為の、第一歩。勇気を出すのはそんなに難しい事じゃない。踏み出したその事にだって意味がある筈だから。

「おやおやお二人さ~ん? 何だか意味深な事を話されているようですがぁ~」
どうやら険悪ではない雰囲気に安心したのか、小鳥が横からひょい、と顔を出す。
「ばっ! そ、そんなんじゃ、無いっ!!!」
「え…………」
「へ…………」
思いもかけない、秋月先輩の反応。真っ赤になって叫ぶ姿に、私と小鳥は一瞬ぽかん、として。
「…………ぷっ」
「ななななんですかその初々しい反応は! 一体どうしちゃったんですか先輩何か悪い物でも…………」
「あははははっ!」
私は久し振りに、本当に久し振りに涙が出るほど笑っていた。