山道を抜け、陥落したばかりのサモドアまでは半日かかった。
戦いを終えたばかりの城は所々崩れ落ち、焦げ付いた壁の黒い染みはよく見ると人型を形作っている。
何かを掴もうとしたまま絶命した敵兵士達の死体がまだ所々に残っていて、本当に戦争は直前に終わったのだと実感した。
ラキオスの兵士達が勝鬨を上げている。通りがかった私になど目もくれない彼らの脇を抜け、城に入った。
……よく、持ちこたえられたものだと思う。後半刻遅かったら、間に合わなかっただろう。
敵が先に降伏してくれた事も幸いした。自分達は知らなかった、いや、知らされなかった。
まだ続いていた山道の戦いの中に、ラキオスの一般兵士達は近寄れなかったのだ。
寂しそうな表情を浮かべつつヒミカがそう話してくれたが、もう怒りなどは湧かなかった。
背後に聞こえる歓声をまるで他人事のように感じながら、今更のように、諦めに似た溜息が一つ漏れただけだった。
気をつけないと崩落しそうな階段を慎重に昇る。一番上、開けたホールのような所に主力のみんなの姿があった。
誰もが疲れたように、膝を落として座り込んでいる。ネリーやシアーは壁に二人寄り添ったまま、居眠りをしていた。
神剣は側の壁に立てかけたまま、戦闘服の所々が破れ、汚れきったむき出しの四肢には細かい傷や痣があちこちに出来ている。
疲れたのだろう、起こさないようにお疲れさまと小さく呟き髪を撫でてやると、ううんと唸って二人は頬を摺り合わせた。
久し振りに見たが、相変わらず仲が良い。微笑ましい姿を眺めている内に、アセリアはどこにいるのかとふと気になった。
歩きながらきょろきょろと辺りを見回す。一番奥まで来た所に、壁を大きく失い、青い空が顔を覗かせてる場所があった。
「アセ――――」
声をかけようとして、口を噤んだ。恐らくは玉座があったのであろう崩れた石畳の上。
そこに、眩しい陽光に照らされてエスペリアにアセリア、そして――――エトランジェの影が、細く並んで伸びていた。
「なぁアセリア……確かに俺達は、戦うことが出来る。でも、それだけじゃないはずだ」
風に流れてくるのは、掠れながらも意志のしっかりと篭められた声。
それは、どうやら問いかけているような彼の言葉だった。腰を下ろしたままのアセリアが、戸惑うように見上げている。
「アセリアの手だって、剣を握るためだけにあるんじゃないと俺は思う――俺はアセリアに死んでほしくないんだ」
「…………」
不思議だった。
彼は、何故戦いの直後にそのような事を言い出すのだろう。やはり異世界からの来訪者という噂は本当なのか。
少なくともこの世界の、“人”としてのまともな発言では無い。おおよそ現実からかけ離れた、酔狂な物言い。
「じゃあ……わたしは……何をすればいい?」
「今は守るために、剣をふるう……でもアセリアにはアセリアの何かがきっとある。
戦い以外の、なんのために生きてるのか、とかさ。だから、簡単に命を捨てるようなことはやめてくれ」
なのに、聞き流す事が出来ない。つい耳を傾けてしまう。
差し伸べられた手を、たどたどしくアセリアが掴んだ。
それを見た瞬間、判ってしまった。アセリアは、彼を認めたのだと。認め、その言葉を信じる事に決めたのだと。
「……ん。わかった。ユートがそういうなら――――わたしは、生きてみる」
「――――っっ!」
ふいに、嫉妬のような感情が湧きあがった。ぴく、と『熱病』の柄を持つ手が震える。
あれ程気を許した表情のアセリアは見た事が無い。昔から不器用で、あんな風に素直に感情を表現出来る娘じゃなかった。
「ユート様……ユート様は、変わりませんか? 力を持った事で、変わっていきませんか?」
それともそんなに説得力のある“人”なのだろうか、あのエトランジェは。エスペリアが、縋るような瞳で訊ね返す程の。
「わたくし達は、戦うためだけの存在です。それは……本当なのです。それでもユート様は、戦い以外に生きろ、と?」
「判らない……俺はスピリットじゃない。だけど俺は、みんなが戦うだけなんて、嫌なんだ。
俺にとって、アセリア達は、人とかスピリットじゃない。その……なんだ……そう、仲間なんだから――――」
判らないなら、言わなければいい。エスペリアだって、判っていない筈は無い。そんな言葉が、ただの理想論だという事を。
“人”とスピリットは、違う。違うから、“仲間”ではない。違うから、そんな都合の良い事を言える。
この城のすぐ下、今も時々上がる勝鬨。叫んでいる彼らが、今までどれだけの事を私達スピリットに強いてきたか。
つい先程も、それで死にかけたばかり……彼の言葉は、考えないようにしていた感情を、一々揺さぶり逆撫でしてくる。
「――――人もスピリットも、関係ない」
その“人”が支配するこの秩序の中、“仲間”を守る以外、一体私達にどれ程の自由が与えられているというのだ――――
「……下らない」
急に和んだ空気の中に自分の居場所が無くなったような気がして、私はその場を後にした。
重い足取りが小刻みに速くなる。途中の廊下で擦れ違った兵士達を睨みつけ、強引に押し退けて城の外に出た。
大きく広がる視界の先、やや傾いた太陽に分厚い雲がかかり、亡びた国の壊れた街並みを暗い翳で一瞬覆う。
「私は……信じない。そんなの無理に決まってる。――――期待なんて、するだけ無駄よ」
風が、吹き抜ける。後ろ髪を抑えた時、唐突に雲が晴れた。目を細め、差し込む日差しに手をかざす。
嘘みたいに澄み渡る青空を背景に、エスペリアの呟きがいつまでも私の心に重く反響を繰り返していた。
――――わたくし達は、戦うためだけの存在です。それは……本当なのです――――
その夜、夢を見た。
懐かしい、昔の夢。まだエスペリアの指導を受けてアセリアと2人、神剣を使いこなす訓練をしていた頃。
暦でいえば、聖ヨト暦317年。ラキオスに転送されて8年目。もう10年以上前の、古い、古い記憶。
「あれ程前には出るなと念を押していたでしょう? アセリア」
「…………ん」
私達は、項垂れてエスペリアの叱責を受けている。私は小さな身体に不釣合いの神剣を握り締め、それにじっと耐えていた。
――辺境の小競り合いに半ば実地訓練として出撃していた私達は、エスペリアに引率されたエルスサーオ市外の
荒涼とした平原で敵と不定期遭遇をし、混戦の中、いつの間にか迷うように単独で最前線に出てしまっていた。
アセリアはそこで敵を2人倒し、私は神剣魔法でそのフォローに回った。すぐに後退しなかったのには、訳がある。
巻き込まれた小さな“人”の少女がそこで倒れていたからだ。スピリットは、人のために戦う、人のための道具。
教えに忠実に私達は剣を振るい、その場に留まりつつ救援を待った。やがてエスペリアが駆けつけ、敵は追い散らされる。
「セリアもですよ。……聞いていますか、セリア?」
「…………うん」
実は、聞いていなかった。敵が去った後の一光景を、私は今でも思いだすことが出来る。
戦闘が終わったとみるや、突如現れた少女の母親の顔を。
まるで化け物をみるような形相で私達を窺いながら子供を引っ張り、
抱き抱えるようにしてそそくさと離れていったその後姿を。遠巻きに見ている市民達の、警戒する表情を。
あの母娘はその後、逃げるようにエルスサーオを出、ラースへと引っ越していったと聞いている。
恐らくは怖くなったのだろう。私達が住んでいる場所から、少しでも遠ざかりたかったのだ。
もう薄茶色に変わってしまった記憶の中、私の背丈に合わせて目線を下げたエスペリアが肩に手を当てながら囁いた。
「……でも、“人”を守った事は褒めて差し上げます。良く頑張りましたね、アセリア、セリア――――」
その一言がとても嬉しく、そしてとても哀しかったのを憶えている。私は泣いてしまったのだ。ただ、訳も判らず。
遠く滲んでいく景色。霞む人影に呼びかける。違うの、エスペリア。私は少女を守ったんじゃない。“仲間”を守っただけ。
『セリア……貴女が、ユート様の事を心配しているのは判っています』
違う、違う。
私が“人”を心配している? そんな筈、絶対にない。“人”を心配したことなんてない。
生き残れない、と言ったのは、私達の事。“人”を守った事なんてない。
だってあんな冷たい瞳で私達を見る、そんな“人”を守れるわけがないじゃない――――
≪ ――――人もスピリットも、関係ない―――― ≫
りぃ、と何かの鋭い音に、瞼が開く。真っ暗な天井が見えた。いつもの、見慣れた自分の部屋の天井。
「夢――そうか、今日あんな戦闘があったから……」
ヘリオンのフォローをしたり、敵に囲まれたりしたので思い出したのだろう。
バーンライトのアセリアも影響しているな、とつい自己分析してしまう。汗でびっしょりと濡れている寝巻きが気持ち悪い。
「リア……」
まだ激しい動悸を抑えながらのろのろと上体を起こし、改めて見渡すと、部屋の隅で『熱病』が淡く輝いていた。
微かに引き攣っている頬。そっとなぞると、涙の跡が残っている。重く気だるい溜息が夜の闇に長く続いた。