戦火は津波のようにイースペリアをも飲み込んだ。
ラキオスがキロノキロを陥としダーツィを併呑した頃、ほぼ同時期にサルドバルト王国がイースペリア国へと攻め込んだのだ。
スピリット隊は、息をつく暇もなくイースペリアの救援を命じられ、そのままヒエムナから西の国境を越え、
イースペリア領ランサ、そしてダラムを制圧していたサルドバルトのスピリットを駆逐しつつ、首都イースペリアに入った。
空が不気味な紫の雷雲に覆われている。
湿度の高い重苦しい空気の中で時折降り注ぐ雷、切り裂くような轟音。その度にあちこちで湧き起こる悲鳴。
燻ぶった黒煙、胸が悪くなる程充満した嫌な匂い。イースペリアは、混乱の極みにあった。
逃げ惑う人々の間を抜けるように紛れるサルドバルト王国のスピリットを見つけ、その都度巧みに郊外へと誘導する。
住人の被害を出来るだけ避けるように戦い、時間を稼ぐ。その間にアセリア達がエーテル変換施設に乗り込む手筈だった。
救援が命令の筈なのに何故エーテル変換施設などに向かうのかは不明だが、その点に関してエスペリアは硬く口を閉ざした。
部隊に対する指示は、ただの陽動のみ。救援の一言も無い。冷静に考えなくても不得要領だが、皆黙って従った。
エスペリアが今まで判断を誤った事などは今まで一度も無かったからだ。
そうでなければこうも連戦で、全く死者が出ていないなどという事は有り得ないのだから。
「ふぅ……それにしても、あとどれ位かかるものなのかしら」
エスペリアの立案した作戦は予定通り進み、私を含め陽動組には一人の怪我人も未だ確認はされていない。
市内の混乱に巻き込まれて散り散りになってしまってはいたが、単独でも何とか凌げそうだった。
数人の敵を倒した後、崩れた家の壁に拠り、警戒を解かずに周囲を見渡す。
どうやら敵の気配が見当たらないので一度体勢を整え、剣を下ろして呼吸を整えようとした。
――――と、いきなり後ろ髪を強く引っ張られる感触。
「痛っ!……ッッ何?!」
意外な角度からの予想外の攻撃に、咄嗟に反応出来ない。
慌てて逃げようとして首がぐき、と嫌な音を立てた。脳天を鋭い衝撃が走り抜ける。
余りの痛みに不覚にも、涙が浮かびそうになる目尻。怒りに任せて仰け反りながら振り返り、その反動で蹴りを――――
「……ヒグッ」
「………………」
――――振り切ろうとして、寸前で止めた。
そこにはとても敵とは思えない、幼い見知らぬスピリットが上目遣いで見つめていた。私の髪を摘み上げながら。
仲間に取り残されでもしたのだろうか、不安そうに揺れる緑柚色の瞳。短く刈り揃えた同色の髪。
そして掴んでいるのは蒼い髪。……私のだ。どうでもいいけど、いい加減離してくれないだろうか。
あやうく叩きつけようとした利き足を慎重に収めつつ、戦闘服の紋章を観察してみる。
やはりイースペリアのスピリットのようだった。敵ではない事を確認しながらまだ痛む首を擦る。
掴まれたままの髪がつんつんと引っ張って上手く動けなかったので、じろっと睨んでみた。
すると怯えた顔のままおずおずと手を放し、そしてすかさず私の戦闘服のスカート部分を握り直す少女……まぁいいけどね。
「……ァ……ゥ……」
「…………」
ただこういう時、どうしたらいいか判らない。
怪我はしていないようだが、激しいショックからか、まともに喋れない様子のこのグリーンスピリットは、
強張った表情をぷるぷると震わせながら、小柄な体型に不釣合いな長い矛型の神剣で杖のように身体を支え、
そしてもう片方の手で私の服の裾をしっかりと握り締めたまま離さない。縋るように、何かを訴えてくる。
「ええと……あのね、私はイースペリアのスピリットじゃないわよ」
「ァ………………」
「仲間の場所は? 判る?」
「ゥ………………」
声をかけてみれば、ぴくっと肩を震わせて緑柚色の瞳をぎゅっと閉じてしまう。これではまるで私が悪者みたいだ。
周囲を見渡してみても、それらしき気配はやはり感じない。ラキオスの仲間達も近くにはいないようだ。
「ハリオン辺りがいてくれると助かるんだけど……はぁ」
どうしたものかと戸惑いつつ、溜息一つ。なんとなく途方に暮れていると。
「ただちにイースペリアから全力で撤退する! みんな、急げっ!」
向こうから、エーテル変換施設に向かっていた筈のエトランジェの叫び声が突然耳に飛び込んできた。
驚き、そちらに振り向く。すると、ぐったりしたアセリアを背負いながら必死になって駆けている姿が遠目に見えた。
「……アセリア!? あぅっ!」
一体何があったのだろう、アセリアは無事なのか、混乱しながら駆け寄ろうとして、また強く髪を引っ張られる。
油断していたせいで、かなり痛かった。本気で睨みつける。が、今度は絶対に手を離そうとはしない少女。
「………………」
「………………」
「………………ああっ! もうっ!」
「…………ャッ!!」
「大人しくしてなさい! どうやら非常事態らしいんだからっ!!」
私はやけくそ気味に言い放つと、嫌がって暴れ出す少女の身体をひょいと小脇に抱え、仲間の後を追いかける為に翼を広げた。
郊外に続く森の、鬱蒼と繁った樹々の間へと飛び込み、そのまま枝を足場に反動で加速する。すぐに、出口が見えてきた。
集まっている仲間の中に、横に伏しているアセリアと治癒魔法をかけているエスペリアを見つけ、
声をかけようとした所で――――――それは、起こった。
りぃぃぃぃん…………
「…………?」
最初は、微かな『熱病』の耳鳴り。続いて緩やかに流れだす空気。
押されるような圧力を僅かに背中に受け、その違和感が警告だと気づいた時には、
私達は、あっという間に広がった大気と雷の渦の只中に放り込まれていた。
「なっ?! あ、ああぁぁぁっ!!!」
「ッ!…………ッッ!!」
いきなり上半身と下半身を逆方向から絞られ、骨が悲鳴を上げる。まず、ウイングハイロゥが千切れ飛んだ。
続いて右足の膝がごき、と嫌な音を立てて無理な方向に捻れる。獣の様な悲鳴が漏れた。激痛にふっと意識が飛びかける。
束ねていた紐が解かれ散らばった後ろ髪の隙間に、地面がぐにゃりと歪んでいた。自分がどちらを向いているのかも判らない。
翻弄され、滲む視界に、不気味に揺らいだ大木が迫る。……ぶつかる。朧な頭でそう判断した瞬間、
腕の中の小さな身体を庇う為に、自由にならない両手を懸命に動かし、そちらに背中を向けていた。
「が! はっ!!」
どすん、と全身の神経をばらばらにされたような鈍い衝撃が背中全体に響いた。
それでも、落下も許されず、そのまま樹木に“張り付けられる”。
ぴぴっと頬に針のように突き刺さる自分の血飛沫。全身が、麻痺していた。
ごうごうと、嵐のような風の音が耳鳴りになって響く。火花を明滅しつつ昏く急速に沈んでいく視界。
自分でも、何故こんなに必死になっているのか判らずに、腕の中でぎゅうっと縮こまっている少女を強く抱き締めた。
「だ、いじょう、ぶ……心、配、ない、か、らっ…………ッッッ!!」
「…………?!」
もう何も考えられずに、ただ抜ける力を腕にだけ掻き集め、そう呟く。
ごきり、と残った左足が抜け落ちる異様な感覚が襲ったが、見上げてくる不安げな表情に何とか笑い返す事が出来た。
≪マナよ、我が求めに応じよ、オーラとなりて、守りの力と――――≫
最後に、そんな声を聞いたような気がした。