ぽう、と包まれるような浮遊感。温かい泥に沈みこんでいくような心地良さ。ゆっくりと瞳を開く。
眩しい緑と黄色が目に入った。かさかさと乾いた草の手触り。頬をくすぐる風の匂い。
「ん……あ…………痛っ!!」
動こうとして、激痛が貫いた。きな臭い鼻腔につん、と甘酸っぱい匂いが広がる。一気に目が覚めた。
「あ、おい、まだ動いたらだめだ、もう少しじっとしていてくれ」
「え……私」
目の前に、エトランジェの顔があった。そっと肩を押され、再び横たえさせられる。僅かな動きにも、背骨が悲鳴を上げた。
「…………ツッ」
「あ、ごめん、痛かったか? もうちょっとで治るからな」
心配そうな表情が逆光で翳っている。意識がはっきりとするにつれ、ようやく至近距離で覗き込まれている事に気がついた。
状況が掴めてくる。……最後に聞こえた幻聴のような詠唱は、もしかしたら彼のものだったのだろうか。
そう考えると何となく気まずくなり、思わず目線を逸らしてしまう。と、見慣れない神剣が目に止まった。
「……木漏れ日の光 大地の力よ――――」
先程の少女が、懸命に治癒魔法をかけてくれていた。まだ未熟なその魔法は、淡く薄いマナの流れしか感じられない。
それでも必死に両手で神剣を握り締め、座り込んだままぎゅっと目を閉じ、繰り返し繰り返し唱え続けられる詠唱。
不思議な温かさが心の中に沁み渡ってくる。激痛は、一向に収まらない。だけど、詠唱が遠い子守唄のように私を包んでいた。
「良かった――――」
力が抜け、急速に意識が遠くなる。同時に、ふわっと持ち上げられるような浮遊感。
「セリア? ……ん、もう大丈夫そうだ。応急処置はもういいよ。さ、一緒に行こう―――――」
それが何かを考える前に、私は心地良い癒しのマナに、溶け込むように眠りに落ちた。
「――――あ。……エス、ペリア?」
気が付くと、そこはラキオスの自分の部屋だった。整頓された一見地味な机の上に、銀の彫像が一体置かれている。
繊細に掘り込まれた表面に浮かぶ、少し澄ました横顔。私をモチーフにして、アセリアが彫ってくれたものだ。
「エスペリア、じゃありませんよセリア。わたくし達がどれだけ心配したと思っているんですか」
ベッドの脇で椅子に座っているエスペリアがほっとしたように目を閉じ、胸に手を当てている。
「一週間も目を覚まさないんですから……もう大丈夫だとは思いますが、痛い所はありませんか?」
なんだかんだ言いつつも、彫像の手入れを怠った事はない。暇を見つけては、布で磨いている。
恥ずかしいが、いつの間にか造られ、手渡されては飾るしかない。それが日の光を反射してきらきらと輝いていた。
遠征で暫く放っておいていたはずだが、エスペリアが代わりに磨いてくれていたのだろうか?
「ええと……セリア?」
「あ、うん……んっ」
ぼーっとしていると、心配そうにエスペリアが覗き込んできた。
まだ少し意識がはっきりとしていない。慌てて頷き、包まっているシーツの下で四肢に力を入れてみる。
寝ていたせいか少々ぎこちないが、痛みもなくきちんと思い通りに動いた。
「大丈夫みたい。ありがとう、エスペリア。心配かけて、ごめんなさい」
「……良かった。お腹が空いてはいませんか? すぐに食事を用意しますね」
「あ、エスペリア?」
「はい?」
立ち上がりかけたエスペリアを呼び止めた。小首を傾げ、振り向いた目元がうっすらと黒ずんでいる。
恐らく付きっきりで看てくれていたのだろう、彼女には昔から、感謝してもしきれないほどだ。
「あの娘は? その、イースペリアの……」
だからだろうか。そんな彼女の後姿を見て、唐突にあの幼いグリーンスピリットを思い出したのは。
エスペリアは顎に指を当て、一瞬天井をみて考え込む仕草をした後、ああ、と小さく頷いた。そしてにっこりと微笑む。
「あの少女なら、昨日付けでラースの施設に保護される事になりました。出発直前まで貴女の側にいたのですよ?」
「…………そう、良かった」
「貴女に宜しくと。ありがとう、泣きながら、そう言っていました。それと――――」
「……え? な、何?」
エスペリアの表情に、微妙な変化があった。
変わらず笑顔で見つめられている筈なのに、何故か背筋が凍ったようにぴんと固まる。――あ、これは、アレだ。
昔アセリアと悪戯をして、見つかった時必ずエスペリアがしていた作り笑い。
他の仲間は気づかないようだが、眉間に寄った微かな皺を、私とアセリアだけは見逃した事が無い。
逃げられるならば逃げたかったが、生憎今は逃げ場がなかった。唾を飲み込みながら、続きを待つ。
しかしエスペリアが放ってきたのは、私の予想を遥かに上回る精神“口撃”だった。
「――――お兄さんとセリア姉さま、お似合いです、と」
「は?…………オニイサン? ネエサマ?」
「どうやら貴女を抱き抱えたユート様を見て、そう判断したようですが。まぁあの光景には皆目を丸くしてましたから」
「え? え? 抱き? みんな?」
「さ、食事の準備をしますね。思いっきり辛い薬湯を用意しますから、必ず飲むのですよ」
「ちょ、エスペリア、それってどういう――――」
ぱたん。必死で差し伸べた手にもかかわらず、無情にも扉は閉ざされてしまう。
置いていかれる白々しい空気。一人取り残された私は必死で記憶の底を辿ってみた。そういえば、とふと思い当たる。
確かに、薄っすらと思い出される針金のような髪。大きな、逞しい腕。気絶する前に感じた、浮かび上がる感覚。
「――――嘘、でしょう?」
かーっとたちまち頬が熱くなった。信じられない。
私はがばっとシーツに包まり、そのまま丸くなって五月蝿い心臓の音が収まるのを待った。
「セリア、どうした」
「ひゃっ!!」
いきなり耳元から声がして、慌てて飛び退く。
目の前にいつの間にか、小さな布を手にしたアセリアが不思議そうに屈み込んでいる。迂闊にも気づかなかった。
「ア、アセ、アセリア?! どうしてここにっ!」
「セリア、変。ずっといたぞ。磨いてた」
「だったら声くらいかけなさいよ!」
「ん。元気そう」
判ってるのか判ってないのか、つまらなそうに頷き、立ち上がる。そしてそのままアセリアは部屋を出て行った。
その背中がやけに嬉しそうにしていたのが判る。何だか悔しくなり、扉に向かって舌を出してみた。――虚しかった。