胡蝶

Yearning Ⅱ-3

「うん。そういう事、自分に厳しい人だとは知ってるんだけど。……でも、その分無理してるんじゃないか、って」
新学期が始まって、少しした頃。次の授業の準備をしていた机の上に、突然暗く影がかかった。
≪あのさ、忙しいんならいいんだけど≫
≪え……あ、高嶺、くん?≫
いきなり話しかけられて、戸惑ったのは確か。だけどそれだけじゃ説明できないくらい、心臓が跳ね上がった。
≪な、なに?≫
≪あ、えっと……ほらこれ。落としただろ?≫
≪……学生証? あ!≫
≪じゃ。もう落とすなよ≫
≪え、あ、ありがと……≫
それが、彼と交わした初めての会話。たったそれだけで、面倒臭そうに席につく彼の背中を、ずっと見ていた。

「ほー、詳しいね。さすがは一目惚れの相手だけに調査済み、って訳?」
「うん―――― え゙」
「ははっ、認めたな。このラブコメ娘っ。今時流行らないよ、ただ黙って見守るなんて」
「ちょ、もう! からかわないでよ! それに誰がラブコメ娘ですって!」
「おお怖。ごめんごめん、だってうわの空のままなかなか帰ってこないからさ。あ、じゃ、私こっちだから。じゃあね」
「待ちなさいっ!…………もうっ」
親友が逃げた曲がり角に、遅ればせながらも悔し紛れにぶん、と勢い良く足を蹴ってみせる。
拍子に真っ白なスニーカーが、道端の小石を弾いた。ころころと転がるそれを暫く黙って目で追いかける。
自分の影が、冬のひんやりとした道に薄く延びている。早く帰らないと。まだ、家までは結構な距離があった。
通学路に選んでいる道は比較的人気の多いところだが、街灯が少ないのでそれなりに不安はある。

「…………っ?!」
そうして小走りに急いでいると、不意に視線を感じた。どこからか、漠然として、それでいて鋭い視線。
まるで監視されているような感じがして、寒気が走った。合気道の心得はあるけど、出来れば実戦は避けたい。
歩く速度を上げると、同じ距離を保ちながら近づいてくる。わたしは気づけば走り出していた。
「はぁ……はぁ…………冗談、でしょ……」
次第に息が上がってくる。いつもは擦れ違う会社帰りのサラリーマンが、今日に限って一人もいない。
不安が膨れ上がった。携帯を手に取る。画面を横目で見ながら後ろを振り返るが、誰もいなかった。ただ、気配だけがある。
家族に助けを呼ぼうかどうか迷っていると、すこし先の交差点の角から人影が飛び出してきた。
一瞬、息を飲む。しかしよく知っているその姿を確認した時、わたしは思わずその場にへたりこみそうになった。

「た、高嶺、くん!」
「ん? あれ、委員長」
追いかけてくる気配が突然ふっと消えた。