胡蝶

Ⅱ-4

私が部隊に復帰して僅か3週間後。ラキオスは、あっけない程の勢いでサルドバルトを制圧した。
これで北方五国は全てラキオスの支配下に置かれた事になる。国民は、沸きあがっていた。戦いは終わったのだ。
しかしそれでスピリットである私達に休息が与えられる訳ではない。相変わらずの訓練の日々が待っている。

「うん、ここも久し振りね」
今日は少し気分を変えて、城の地下にある屋内訓練施設に来てみた。
あまり広くは無いが、一人で素振りをするのには丁度良い。――――考えたい事もあった。

壁際に並んでいる古い鎧を仮想敵に見立て、『熱病』を構える。
視線の中心で光を放つ中肉の刀身。転送されてきた時から見慣れた中央に走る紺色の紋様を切り返し、
白いブーツの爪先と剣先を結ぶ線上に目標を置き、そっと眼を閉じる。意識の内側で広がる“自分以外の意識”。
今はマナが欠乏している訳ではないのでその破壊衝動を抑えるのは容易い。引き上げた強制から力だけを引き出す。
充分に、境界線一杯まで求め、混ざり合う寸前その歯止めを開放し、踏み出すと同時に剣を振り上げる。
握った柄から漲った力が一度体内でマナと融合し、弾かれたように剣先へと伝わり、呼応した『熱病』が光を放つ。
ひゅうん! 何も無い空間に、残像のようにして淡い光芒が弧を描いていた。

「……ふぅっ」
止めていた呼吸を取り戻し、深く吸った息をゆっくりと吐きながら刀身を下ろす。今の“共鳴”は上手くいった。
戦闘中にこれが出来れば、力は数段増すだろう。今はまだ時間がかかりすぎて実戦向きではないが。
ファーレーンなどはこの辺の呼吸が実に上手い。ブラックスピリットの特性とでもいうのだろうか。
「……彼女ほどとは言わないけど。速さが課題なのは間違いないわ」
反動からか、いつもの気だるい感覚が、ひんやりと思考を冷やしていく。
数十回夢中になって繰り返していくうちに、次第にクリアになっていく頭。明晰になる感情と理性の領界。
「はぁ……ふぅ……んっ」
やがて汗まみれになった全身と緊張で強張った筋肉が休息を命じ、備え付けの椅子に用意していたタオルを手に取る。

「エトランジェ……ユート」
この3週間、機会があれば観察し、暇を見つけては仲間に話も訊き、自分なりに考えてもみた。
確かに、以前とは比べものにならない位、『求め』を使いこなしている。
激しい戦闘を繰り返してきたせいか、身のこなしもそれなりに見えるものになっていた。
隊長としての自覚か、指揮する格好もさまになってきている。そして戦果は申し分ない。
だからこそ皆も素直に指示に従っているのだろう。それは、認めなければならない。
彼は、我々スピリット隊の隊長として、いや、エトランジェとしてのその資質を開花しようとしている。

「……だけど」
だけど。それは、より“沢山殺せるようになった”という事。
彼は、サルドバルトでどれだけの“私達”を殺しただろう。
そこに、“人”としての都合が無いのは判る。
むしろ同じ“人”の都合に使われてしまっているということも、今は知った。
だが、だからこそ、考えてしまう。サモドアで聞いた言葉、

 ――――戦うことが出来る。でも、それだけじゃないはずだ――――

……彼は今も同じことが言えるのだろうか。
あの時は、そんな理想論にただ反発しか感じなかった。だが彼は着々と行動でそれを示そうとしている。
口だけだった当時とは違い、ちゃんと目で見え、感じられる意志。それはつまり、説得力だ。
……もしかしたら、期待してもいいのだろうか。
幼い頃に感じた、“人”とは違うと。冷たい視線を送り続けるものとは違うと。

 ――――人もスピリットも、関係ない――――

同じ視線で語り合い、仲間として認め、共有出来る。そんな、夢物語のような幻想を。
そして、戦う以外の別の未来が、自分達にも啓かれる日が来るかもしれないと。
「馬鹿馬鹿しい。…………夢想よ、そんなの」
無理に呟いた否定の言葉は、どうしても弱々しいものにしかならなかった。

「よっ、セリアも訓練してたのか?」
「あ……はい」
物思いに耽り、つい油断した背中にかけられた言葉。反射的に返事をしてしまうが、振り向いた途端硬直した。
ついさっきまで考えていた当の本人が、何か引き攣ったような笑みを口元に浮かべながら突っ立っている。
こちらも面食らって変な返事の仕方をしてしまったかもしれないが、人の顔を見てその表情は無いだろう。
無いとは思うが迂闊に先程の考えが表情に出ないように黙っていると、今度は落ち着なさそうにごにょごにょと話し出す。
思わず訊き返していた。
「?……なにか?」
「あ……いや、もしよかったら訓練に付き合ってもらおうかなって思ったんだけど……」
嘘だ。訓練直後の張り巡らせた神経などなくても、泳いでいる視線を見ればその位は判る。
大体今朝思いついて一人で来た私をどうやって見つけたのか。
……取り繕ったような言い回しに、持ち前の短気さが顔を出す。
「すみません。そろそろ上がろうかと」
それに、たった今気がついたのだが、訓練でかいた汗が一斉に冷え切ってしまっている。
認めたくはないが、緊張しているようだった。私にしても、“人”とのコミュニケーションに慣れているわけじゃない。
訊きたい事があった筈だが、とりあえず軽く会釈をして、その場を去ろうと置いてあった『熱病』を取った。
「だよな……そうだ、だったら少し話をしないか?」
「はい。場所はここで構いませんか?」

  ――――え゙?

自分が、信じられなかった。
さっきまでは逃げたいとまで考えていたのに、誘われた途端のこの即答は何だろう。口が勝手に喋ったとしか思えない。
そして言ってしまってから、妙にすっきりしているのにも気づく。きっと今、相当気を許したような表情をしていただろう。
内心戸惑いつつ無表情を装っていると、
「……え?」
どういうわけか、彼の方も驚いていた。……失礼ね。

「どうなさいました?」
「いや、あ……場所はここでいい」
「そうですか。では失礼します」
おかしい。何気無く受け答えてはみたが、彼の一言一言に、こうも感情が揺さぶられている。
椅子に座る時に膝の上に乗せた手の平が驚くほど熱い。強張る身体。鼓動が地震のように奥から突き上げてくる。
意識しないようにしていたが、さっきからまじまじとした視線で見られ続けていた。俯き加減で表情を隠す。
今日ほど髪を伸ばしておいて良かったと思った事は無い。きっと耳が赤く染まってしまっているだろう。
「……私の顔に、なにかついてますか?」
堪らず、訊いてみる。すると慌てて目を逸らす横顔。
「いや……えーと、なんだ。いきなりだったからさ」
その表情が、どこか少年のようだった。

――――ああ、そうか。
唐突に、理解した。彼も、緊張している。
そして判ってしまうと、急に楽になってくる。肩の力がふっと抜けた。
「いきなり誘われたのは、私の方だと思いますが」
「……あっ、それは、そうなんだけど」
「あの、1つ、うかがってもよろしいですか?」
「え、ああ、はい。1つと言わず、いくつでも」
「ありがとうございます。では……尋ねさせていただきます」
ぽんぽんと、次第にリズム良く続く会話。一方的に質問を重ねているような気もするが、構わない。
動揺していたさっきまでとは違う。少なくても、ちゃんと頭で考えて、そして自分の意志で口にしているのだから。
ふわり、と『熱病』から流れてくる、とても穏かなマナ。
私はきっと決心がいるだろうと思われた言葉を、とても自然に伝える事が出来た。

 「――――ユート様にとって、私達は、何ですか?」

「え――――」
高い石造りの天井から、重たく湿った空気が下りてくる。
沈黙は、長く続いた。或いは、そう感じただけなのかもしれない。
サモドアでの、アセリアへの言葉。あれは今でも本心なのか。本心で、いてくれているのだろうか。
それが、どうしても訊きたかった。
じっと眼差しを動かさず、真意を測るかのように見つめてくる瞳に、促されるように続ける。
「アセリアやエスペリア……それから他の者。要するに、一緒に戦っている私達のことです」
そして、それは“アセリア達”だけへ向けられたものなのか。“私達”、スピリットに対してのものなのか。
不明瞭な部分を、はっきりとさせたかった。疑い深いのかも知れないけど、でも、仕方が無い。
今までが、“そう”だったのだから。
“人”は常に彼らの価値観や先入観で自分達を恐れ、卑しみ、そして虐げてきたのだから。

「ユート様がどう思っているか、正直にお答えください」
こんなに喋ったのは、久し振りだった。仲間内でもここまで考えを砕いて伝えたい、と思った事などは無い。
アセリアは何も言わなくても何となく伝わったし、エスペリアは何も言わなくても恐らく理解してくれていた。
他の仲間も、そうだ。同性、というのもあるが、伝わらなければ死ぬだけの戦場で共に戦ってきた経験というものがある。

少し漠然としていたかもしれないが、これが今の自分の限界。精一杯話したという達成感に、深く息をつく。
膝元に置いていた手を軽く握り直していると、彼は静かに話し始めた。
「俺はみんな大切な仲間だと思ってるし、それに…………家族、みたいなものだと思ってる」

「家族、ですか?」
思わず聞き返す。その言葉は全く予想していなかったものだった。家族。今、確かに彼はそう言った。
“人”の、社会的な最小単位。血縁で作られると聞いているそれは、“人”の世界では確かに仲間より重い絆の筈。
例えば、同じくこの世界に現れたカオリ様は、彼の家族だ。彼女と同等――――心臓が、可笑しい位、跳ねた。

訥々と、それでも真摯な言葉が心に直接ぶつかり、響いてくる。
「そう。って言っても、本当は俺は家族ってよく判らない。物心ついた時には佳織しかいなかったから……」
「………………」
「だからこれは、俺の思い込みっていうのもある」
「………………」
「勝手かもしれないけど……俺は、そう思ってるよ」
「………………」
カオリ様が帝国の者に攫われた時、彼は自分が見ても尋常でない程うろたえ、あやうく神剣に取り込まれる所だった。
城から出され、再会した際の喜びようも聞いている。そのカオリ様と同じ――――視線を逸らす事が出来なくなっていた。
吸い込まれるように、ただ黒い瞳を見続ける。戸惑いと、本気なのだろうか、という思いが交錯した。
心の準備が出来ていない。高まる感情が一体何なのか理解しようとする心を抑え、確認するように問いかける。

「――――私達が“人”ではなく、スピリットでも、ですか?」
「そんなの別に関係ないって」
「え……?」
彼は、本当に何でもないような軽い調子でそう答えた。

「ただ神剣が使えるっていうだけで怖がられたり、気味悪がられたりする方がおかしいと思う」
「………………」
そのあっけなさに、拍子抜けする。でもその一言に、確かに安心している自分がいた。
一度目を瞑り、心の中に確認する。うん、間違ってない。間違ってないわよね、リア――――

「――――わかりました、信じます」
今までずっと頑なに引いていた境界線を、そっと開く。そこに、もう一人、加えるために。
私は、“人”というものを初めて信じた。

「え!? でも、俺のことは信じないんじゃなかったのか?」
ささやかな充足感に浸っていると、彼がまた、意外そうな驚きの表情を浮かべた。
……だから、自分で言っておいてそれはないでしょう? 本当に、失礼な人なんだから。

「あれは、あの時点でのことです」
そう、あの時はあの時。今は今。
「その後に普段の言葉も聞きましたし、戦場でどう戦っているのかも見せてもらいました」
まだ、“人”全体に対しての不信感は消えない。だけど、この瞳の持ち主は。
「私は、自分の目を信じます。だから貴方……ユート様は本当に私達を家族と思っているはずです」
「セリア……」
清々しい風が胸の中を通り過ぎる。感謝の気持ちに変えて、意識的に呼称を切り換えた。
まだ少しぎこちないが、じきに慣れるだろう。隊長――――ユート様。

それから彼はカオリ様とは実は血が繋がってはいないと話してくれた。意外だったが、素直に頷く。
境遇が私達とますます似ているような気がしたのは、唯の気の迷いだろうか。
「…………少しだけ、親近感が湧きました」
「え?」
「私の目的も、みんなを―――家族を守ることですから」
頬が熱いが、恥ずかしいのとも違う。私はやっと、この“人”の前で素直に笑うことが出来ていた。

そうしてふと気がつくと、彼が惚けている。
口を半開きにして何か信じられないものを見たような。
「……どうされたんですか? またぼーっとして」
「いや……こうやって、セリアと話せてるのが夢みたいだなぁって」
「な…………!」
突然の発言に、一瞬頭が真っ白になった。いきなり何を言い出すのか。
熱さが、あっという間に顔中に広がってしまう。今度は間違いなく、恥ずかしさで。
「い、今までだって聞かれたことには答えていました!」
「そうだけど、わりと無視されてたような……」
「違います。きっと、聞こえていなかっただけです」
気弱そうな声を出した彼を押し切るように言い切り、慌てて背中を向ける。
やっぱり失礼な人だ。しかしそう思ってみても、いつまで経っても激しい鼓動が収まらない。
「それでは、失礼します」
みっともない、と思いながら、この場は逃げるしかなかった。立てかけた『熱病』を握ると柄が冷たくなっている。
「ああ、付き合ってくれてサンキュ」
「………………」
追いかけるように聞こえるのは、気楽そうな声。
あまりの鈍感さに睨みつけてやろうかと思ったが、上手く言葉が出ない。
ただ頷き、縺れるような足取りで退散した。
背後から、びゅっびゅっと素振りを始めたらしい音が聞こえる。そういえば、と思い出した。
訓練を終えて大分経った筈なのに。汗は冷えず、余熱を残した全身は火照ったように熱いままだった。