胡蝶

Ⅲ-1

神聖サーギオス帝国を巡る政治的な対立の末勃発した対マロリガン戦は、
地獄のような灼熱の砂漠、敵の新兵器である『マナ障壁』、広大な領土の全制圧と、
今までに体験したこともない難関を次々と打ち破らなければならない激戦だった。
その中でも特に、私達の前に大きく立ち塞がった脅威は二人のエトランジェ。
永遠神剣第五位『因果』、同じく第五位『空虚』。それぞれの契約者をもマロリガンは擁していたのだ。
『因果』の持ち主コウインは権謀術数にも長け、配下の精鋭稲妻部隊を巧みに操る防戦を展開した。
一方神剣に意志を飲み込まれていると聞いたキョウコは要所要所に現れ、その桁外れの破壊力で戦局を逆転させる。
攻め込んだ筈の私達の方が戦術レベルと戦闘レベルの両方で対処に追われ、度々後退を余儀なくされ、
スレギトと開放したデオドガンの間の戦線をようやく維持したところで状況は暫く膠着していた。いや、させられていた。

元々遠征軍である。エーテルジャンプが発明されたとはいえ、補給が潤沢とはいえない。
加えて広大な領土を攻める行軍。ラキオスとは気候の違いもありすぎる。連戦に、年少組の疲労が目立ってきた。
砂漠程では無いがマナの乏しい、見渡す限りの荒野をただ歩く。遥か前方に見える、ガルガリン。それが当所の戦術目標だが。
「ねー、まだー?」
「ネリーいいかげんにして。その台詞、もう何回目?」
やや元気なネリーが退屈そうに両手を頭の後ろで組みながら呟く。溜息混じりにヒミカが嗜める。
私は先頭を歩いているので見えはしないが、さっきから同じ光景が繰り広げられているのでもう慣れた。
多分続いてハリオンののんびりしたおっとり声、そして乾き切ったカワナトの葉を握り締めながら気合を入れなおすヘリオン。
「んもう、我が侭ばっかり言ってはめっ、めっ、ですぅ~」
「そ、そうです! 頑張りましょう、ネリーさんっ」

「はぁ、はぁ」
メンバー中最も疲労が目立つシアーは無口で私の隣を、ふぅふぅと息を乱しながら歩いている。
ネリーと背丈はほぼ同じだが、持つ神剣の形状の違いか、大きすぎるそれをまだ持て余しているようだ。
もう少し成長すればきっとブルースピリットとしてはかなりの戦力になるのだろうが、時がそれを許してはくれない。
手元に握りっぱなしの『熱病』を垣間見る。幼かったあの日、私もこんな感じで神剣に「振り回されて」いた。


≪セリア、危ない!≫
≪え……ああっ!≫
転送されて7年目に、それは起こった。
それまでの養護施設から、訳もわからないまま訓練施設に放り込まれて約半年。
やる気の無い訓練士の下、それなりに生き残る手段をようやく考え始めていた頃。
内乱の起きたエルスサーオで、私は少し年上の同じブルースピリットと共に、蜂起した市民達に囲まれていた。
スピリットが混じっていないとはいえ、私にとっては充分過ぎるほどの威圧感を与える、“人”の大人達。
彼らは手に思い思いの武器を持ち、集団でじりじりと威圧をかけながら近づいてくる。

≪落ち着いて。大丈夫、私がいるから≫
≪う、うん……≫
今はもう上手く思い出せない素顔。
転送されてきた時期が近かったせいか、未熟な私にことある度、目をかけてくれていた。
エスペリアよりは歳も近く、短い間だったがよく彼女の後ろを追いかけていたことを覚えている。
長く纏めた後ろ髪がとても綺麗で、追いかけながら風にきらきらとたなびくそれを見るのがとても好きだった。
――――姉のように、慕っていた。

≪いい、死んではだめよ。まず、自分を守ること。敵の動きを良く見なさい……≫
蒼い瞳と優しい声がまだ物心ついたばかりの私をどれだけ励ましてくれた事か。
≪思い出して。私達はスピリット。“人”には、負けない≫
戦士としての、優れた才能をも持ち合わせていた。
今振り返ってみると、彼女一人なら難なく切り抜けられた局面だったのだろう。
恐怖で周りが見えていない私が足手まといだったのだ。でも、彼女はそんな不満などたったの一言も漏らさなかった。
≪それじゃ一度深呼吸して……モート(3)、ラート(2)、スート(1)…………ガロッッ!!!≫
≪あっ! 待っ……≫
飛び出す背中に翻る、長く纏めた蒼い後ろ髪。それが彼女――――リアを見た、最後だった。


目の前に急に充溢してきたマナの流れに、足を止める。
不思議そうな顔をして見上げるシアーの頭を無意識にそっと撫で、小高い丘の上を睨んだ。
「セリア……?」
「しっ。黙って」
「う、うん……」
鋭くなってしまった声に、身を竦めるシアー。両手に抱え込んだ『孤独』の輝きがやや鈍い。
悠々と丘に現れた人影から目を逸らさないよう、出来るだけ穏かな口調で囁いた。
「大丈夫よ。……私がいるから」
「あ……うんっ!」
一度服の裾をきゅっと握って、そして離れる気配。後ろでも、緊張した空気が窺える。
もう全身を晒してしまっている敵が、静かに口を開いた。

「ラキオス……油断していたとはいえ、よくもここまで侵入を許したものね」
「気づいた貴女も大したものよ。その様子だと、ニーハスも、かな?」
ニーハスでは、隠密で移動したアセリア達主力がそろそろ攻め入っている頃だ。
「ふん。人の心配をしている場合でもないだろう。私はライトニング副隊長、稲妻のクォーリン」
グリーンスピリット特有の穏かな気配が一転し、華奢な外見に不釣合いな大鎌のような銀色の神剣を振りかざす。
構えた拍子に顔の両脇で伸ばした緑色の髪が大きく揺れ、優しそうな面影の奥で碧色の細い眉がきゅっと締まる。
鋭く放たれる殺気。でも、その気配の変化で判った。
「『熱病』のセリアよ……確かに“人”の心配なんてしてる場合じゃなさそうね、その様子だと」
ニーハスにも、敵の迎撃が待ち受けているという事を。

でも、あちらはユート様に任せておけば心配いらない。そう言外に籠め、薄く笑う。
「ありがとう、教えてくれて。でも肯定も否定もしないなんて案外素直なのね。忠告しておくけど、直した方がいいわよ」
「……ふん。少しは状況が掴めたようだな。それでは死んでもらおう。……いくぞっ!」
ちっと軽く舌打ちした後、気を取り直したのか構え直す大振りな神剣。
華奢に見える剥き出しの細い腕は、この炎天下で日焼けもしていない。
大きく開いたスリットから覗く白い両脚をぐっと折り曲げる。
露出の高い戦闘服は、防御に絶対の自信がある証拠だろう。砂漠の暑さに特化して作られた服かもしれない。
クォーリンと名乗った敵は、びゅん、と一度水平に剣を伸ばして静止した――――それが戦いの合図だった。

「ハイロゥ!」
肩に意識を集中しながら声高に叫ぶ。
「……ヒミカ!」
「判ってる! マナよ、力となれ 敵の元へ進み…叩き潰せ!」
敵は何故か、グリーンスピリットのみ。それなら、神剣魔法による攻撃が有効。シールドハイロゥは硬く、剣では崩し難い。
ここにナナルゥかオルファリルでもいてくれたならいいのだが、今はヒミカに頼るしかない。
しかしもし、私達の部隊にレッドスピリットが少ないのを見越してのこの布陣だとすると、侮れない。
稲妻部隊の副隊長を務めるだけはある。エスペリアもだが、彼女もかなり聡明な部類に入るだろう。

「ネリー、シアーをちゃんと見てなさい! ハリオン、ヘリオンのフォローお願い!」
唇を舐め、緊張をほぐす。握り締めた半身から流れる意識を開放しつつ、私は荒れた草地を大きく蹴り上げていた。
敵が一斉にシールドハイロゥを広げ、緑に輝き始めたその空間に、高速詠唱を唱える。
「甘いっ! ……マナよ、我に従え 彼の者の包み、深き淵に沈めよ……エーテルシンクッ!」
飛び出した白い結晶の塊は、『熱病』の剣先から迸ると同時に敵左側面で炸裂し、神剣魔法を一瞬で打ち消す。
間合いに入った私に一番近い少女がダメージによろけながらも短く畳んだ細身の槍で対抗しようとした。
魔法をキャンセルしたとはいえ、シールドがまだ生きているグリーンスピリットに、致命傷は与えられない。反撃がくる。
「これで向こうの力を抑えれば… うんっ、いけるいける~っ!」
しかし次の瞬間タイミング良くネリーのサイレントフィールドが決まり、『熱病』の中でマナが膨れ上がる。
膨張した四角い切先が唸り、思いっきり撓らせた身体を一気に折り畳んで振るった。
「――もらったわっ!!」
「何っ?! ぐ、ああぁっ!」
シールドを破られ、槍を弾かれ、仰け反ったグリーンスピリットの両手首が吹き飛び、苦悶の声を上げる。
これでまず、一人が戦闘不能になった。乱れた陣形に、動揺が走る。見逃す手は無い。
「手加減はしません…… 最強の技で葬り去るのみ!」
ぐん、と身を沈め、大きく深く地面を抉るように軸足を踏み込む。ずくん、と身体からマナが抜け落ちる気配。
眩暈に似たそれをやり過ごし、両手で水平に振り被った『熱病』に全て送り込む。捻れた胴の反動を利用した、最大の技。
「はぁぁぁぁっっっ!!!」
どうん、と唸りを上げた衝撃の塊が振り切った剣先から一気に迸り、周囲の敵が吹き飛ばされる。
倒れ、びくびくと痙攣を繰り返している彼女達を確かめて振り返った。先に、例のクォーリンがまだ立っている。
「――――其は大地に満ちる活力、精霊よ、全てを貫く衝撃となれ――――」

「?……っっ!!」
聞いた事のない、詠唱。グリーンスピリットでは一番長けているエスペリアからも、感じた事のない攻撃的なマナ。
身体の正面に立てかけるように天を仰ぐ神剣の、弧を描いた切先から弾ける緑色の雷に、私は確信し、叫んでいた。
「神剣魔法がくる! ネリー、シアー、エーテルシンク! マナよ、我に従え―――っ!」
戦いの最中、戸惑うようにみんなが一斉にこちらを向く。
グリーンスピリットの攻撃魔法など、聞いた事も無いだろうから無理もない。私だって半信半疑。
しかし、剣の警鐘と戦いで培った勘が叫んでいる――――“あの長い詠唱は”危険だ、と。
振り返った先で、敵と剣を交えていたシアーがひっと大きく息を飲むのが見えた。
クォーリンの、丁度真正面。誘導されたのか、シアーを襲っていた少女がすっと後ろに下がる。
「シアー! 危ないっ!」
「……もう、遅い。くらえ……エレメンタル、ブラスト!!」


リアは、囲まれても殆ど抵抗というものを見せなかった。
集団の、狂気にも似た悪意が輪の中心に集中する。振り下ろす武器に、ぐちゃりぐちゃり、と連続して起こる嫌な音。
力尽き、ずだずだにされていく“肉塊”。金色に散らばる蒼い、好きだった髪。
虚ろに光を失った瞳が微かに流していた涙の後を見たとき。私は“キレ”た。
≪ウ…………ウアアァァァァァッ!!!≫
きん、と冷たい霧のようなものが頭を霞め、腕の中の『熱病』が光を放つ。
無我夢中で斬り付けた私に降りかかる、べっとりと熱い血の飛沫。むせ返るような腐った匂い。その中で、理解した。

  ――――“人”は、仲間じゃない。

白い閃光のようなものが頭の中を廻った後のことは、よく憶えていない。
≪セリア! もう止めなさい!≫
≪ウア、ウアア、ウアアアァアアッ!!!≫
≪もういいの! もう、ここに敵はいませんっ!≫
≪アアッ、アアアッ!!≫
駆けつけたエスペリアに取り押さえられながら、私は獣のようにくぐもった唸りを上げ、暴れ続けたらしい。
焼け切れた理性が『熱病』に取り込まれかけていたという。

――以来、エスペリアはその事に触れようとはしない。

今なら、判る。リアは、負けなかった。ただ、『“人”に逆らってはいけない』、そんな教育を刷り込まれていただけ。
幼い私は、防衛反応からか、その時の記憶を一時的に失っていた。思い出したのは、あの母親の目を見たときだ。
≪あれ程前には出るなと念を押していたでしょう? アセリア。セリアもですよ――――≫
エスペリアの叱責を受けながら、私は涙を流し続けていたのだ。手を引かれて立ち去る少女を見送りながら。
遠巻きに囲む悪意の視線に懸命に耐えてマナの残滓を纏った『熱病』を感じながら。
胸に残ったしこりがずきずきと哀しみばかりをこみ上げさせてくるのに、懸命に堪えながら――――


詠唱完了と共に襲い掛かった雷撃の嵐は、あっという間に周囲の景色を一変させた。
燃え上がることもなく蒸発しきった草木の下で、むき出しの地面がもうもうと土煙を舞い上げ焦げ臭い匂いを放つ。
ささやかな生命の息吹を根こそぎ奪われ、悲鳴を上げている大気。

「う、うう……」
「セ、セリアぁ?!」
まだ痺れるような空気が塵に細かい放電を繰り返す中、私はシアーを抱えたまま動けないでいた。
辛うじて避わしはしたものの、背中に受けた余波の衝撃で息が詰まる。
腕の中で叫ぶシアーの泣きそうな声すら、きんきんと鳴り響くような眩暈を起こした。
「大丈夫? 大丈夫? ごめんなさい、ごめんなさい~」
珍しく、切ったような口調。いつも私の前ではおどおどと怯える態度しか見せなかったのにと、多少可笑しくなる。
「……平気、これくらい。言ったでしょ、私がいる限り、シアーを死なせはしないから……痛っ!」
笑いかけるつもりだったが、激痛がそれを許さなかった。そしてまだここが戦場だということを思い出す。
「ぐっ……クォーリン……みんな!」
「セリアぁ……」
そっとシアーをどかし、よろよろと起き上がる。周囲を見渡すと、シールドを張ったハリオンが何とか凌いでいた。

片膝をついたヒミカが両脇にヘリオンとネリーを抱え、なんとか片目を瞑ってよこす。
二人は目を回し、気絶しているようだ。ぐったりと動かないが、外傷は見当たらない。
そして丘の上に目をやると――――呆然としたまま、クォーリンが立ち尽くしていた。
「貴女達……正気なの? 仲間を庇う為に、命を……」
最初は、何を言っているのか判らなかった。首を振りながら戸惑うクォーリンには、何か子供の様な幼さを感じる。
「嘘……コウイン様の仰っていた事は、本当、だった……?」
信じられない、という感じで手元をじっと見つめたまま動かない。事情は判らないが、隙だらけだった。
その向こうに数人いる稲妻部隊も同じように目を泳がせたまま、指示を求めるようにクォーリンを見ているだけ。
まだ手元にある、『熱病』を確かめる。大丈夫、まだいける。私は残りのマナを掻き集め、光輪を何とか展開した。
「たぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
同時に加速し、浮かび上がる身体。纏わりついた土や砂がぱらぱらと後方に置き去りになる。
殺到した私の姿に、クォーリンがゆっくりと無言で振り返った。

「え――――」
瞬間、何か悟ったような穏かな瞳の中に得体の知れない涙を見つけ、慌てて剣を抑えた。
踏みこんだまま踏ん張った足元で、耐え切れず盛大に吹き飛ぶ抉られた土砂。
無理矢理制動をかけられた剣先から、ひゅっと鋭い音を立てて飛ぶマナがクォーリンの頬を掠め、遥か前方で爆発する。
余波で微かに振動した地面の上、『熱病』の切先は長い緑髪の一房を薙いだところで止まっていた。
「ハァッ、ハァ…………ふぅ……」
「何故、殺さない」
「………………」
僅かな逡巡の後、クォーリンが呟く。
答えず、ぱらぱらと舞う緑色の髪が、風に流されながら金色のマナに変わるのを追いかけた。
まだ、ぶるぶると震える腕。灼けるような背中の痛みを思い出す。流れる脂汗がじっとりとその傷に沁みこんでいく。
「殺せ。それが私達スピリットの、戦う理由だろう?」
額に張り付いた前髪の隙間から、異様な光を放つ瞳が見える。真摯な眼差しに気圧されるような感覚。
ぐっと唇を噛んだ。鉄の匂いが遠くなりかけた意識を取り戻させてくれる。私は、短く呟いた。
「違う。私達は…………スピリットは、戦う為に、生きている訳じゃ、ない」

  ――――そんなの別に関係ないって

「そんなの、関係ない。そんなの、関係ないじゃない……」
「……驚いた。本気でそんな事が言えるの?」
「……本気、よ」
目を丸くしながら確かめるクォーリンに、大きく一つ頷いた。拍子に、零れる涙。
後から思い出しても恥ずかしいが、私は敵のど真ん中で、漏れそうになる嗚咽に懸命に堪えていた。
「私はきっと、見つけてみせる。自分の、自分だけの、生きる意味を」

――いつの間にこんなに感化されていたのだろう、あの薄汚れた背中に。
気づけば、受け売りの言葉を伝えている自分がいる。
しばしの間。呆れたような眼差しのクォーリンが、やがてふっと表情を緩ませた。
「……そう。なら、今日はここまでね。どうやら私にとっても、この戦いに意味は持たせられないようだから」
「……クォーリン?」
「総員退却! 至急、ミエーユに向かう! 本隊が相手だ、油断するな!」
呆然としたままの私を後にざっ、と鮮やかに引き、背中を向けたクォーリンは、最後に呟くようにこう言った。
「さよなら。もう会うことはないと思うけど……貴女のような人に、また会えるなんて思わなかった」