胡蝶

Ⅳ-1

宣戦布告も無いまま、各地で小規模な戦闘が行われている。
マロリガン共和国を版図に加えた我が国は、突然手に入った広大な国境線を維持するという術に長けてはいなかった。
サーギオスとダスカトロン大砂漠をぐるりと取り囲むように形成された戦線。
そこから無造作に突出してくるスピリット達をかろうじて凌いでいられるのは、エーテルジャンプ装置に負う所が大きい。

「ハァッ!……ふぅ、ここは大体片付いたのかしら」
最後の一体を斬り伏せ、周囲を見渡す。見通しの良い草原に、敵の気配は感じられない。
今日は、デオドガン郊外からの襲撃だった。
驚いた事に、敵はわざわざ砂漠を越えて攻めこんで来たのだ。熱の篭る砂塵を踏み越えて。

ラキオスから転送されて、迎撃を始めたのが数刻前。
偵察が目的だったのか、相手が少人数だったのはせめてもの救いだったが。
「後は――痛ッ」
先程から気になっていた方角に目を向けようとして、ずきりと痛みが走る。
右腕が、軽く切り裂かれていた。どうやら気づかないうちに手傷を負ったらしい。
「はぁ……しょうがないわね」
少しだけ溜息をついて、腕を庇いつつ足を向けた。彼とハリオン達がまだ戦っている筈の方面へと。

仲間達が集っている場所は、すぐに見つかった。
近づいてみると、中央に気を失っているヒミカと妙にぐったりとしているハリオンがいる。
またか、と内心呆れつつ、一番手前にいるオルファリルに話しかけるように呟いた。
「……ふぅ、治してもらおうと思ったら」
「あ、セリアお姉ちゃん!」
「大変なんだ、ハリオ……」
「落ち着いてください、ユート様。これを見れば、状況はわかります」
きっと初めての事態で狼狽しているのだろう彼を、そっと窘める。
「きっとヒミカが無茶をして大怪我して、それを治すために今度はハリオンが無茶をしたんでしょう?」
「あ、うん……」
二人を知っていれば、簡単に想像出来る。というより、以前からもう見飽きた光景だ。
「もっと休める場所に運ぶ方がいいと思います。ユート様はハリオンをお願いします」
指示を出しながら、そっと表情を窺ってみた。一見普段と変わらないそぶり。
もう、あの時の想いは引き摺ってはいないのだろうか。仕草に、そんな様子は窺えないが。
「わかった……と、その前に」
「なんですか?」
大きく頷いた彼が急に真面目な顔を向けてきたので、殊更無表情を装って訊き返す。
「治してもらいに来たみたいだけど、セリアの怪我は大丈夫なのか?」
…………なんで普段は鈍い癖に、こういう時だけやたらと鋭いのだろう。折角死角になるようにと身体で隠していたのに。

「腕を少し……ですが、傷はそう深くありませんので」
「まぁ、見せてみろって」
「あ……」
ふいに腕を取られ、思わず眉をしかめてしまう。鋭い痛みが肩に響いた。
すると見られてしまったのか、納得顔をした彼は素早く傷に手をあて、
「これくらいなら、俺にも……」
躊躇もせず、エトランジェ特有の力、オーラの淡い光を展開し始めた。
「………………」
暖かい。触れた指先から迸る輝きが、周辺ごと私の腕を包み込む。
不覚にも、声が出なかった。伝わってくる微かな鼓動に、驚く暇も抵抗する気も削がれてしまっていた。

「どうだ? まぁ、ハリオンほど上手くはいかないけど」
深い、しっかりした口調に我に返る。
ゆっくり見上げてみると、いつになく真剣な、日に翳された黒い瞳。
「……ありがとう、ございます」
「よし、それじゃ行こうぜ。オルファはウルカたちと合流して、しばらく見回りを頼む」
「りょーかいだよ、パパ!」
「よっと……」
「ふぅ、らくちんですねぇ~」
「セリアの方は大丈夫か?」
ハリオンを抱えたまま首だけ振り向いて尋ねられ、またぼぅ、としていた事に気付く。
呆けていたことを指摘されたような気がして、何か言いようのない腹立たしさを覚えた。つい事務的な態度を取ってしまう。
「はい。では、向こうの陰に」
「ああ」
しかし突き放したような口調を気にもせず、ユート様は歩き出してしまう。
悔しさが混じる不思議な感情の中、その後姿をずっと目で追っていた。

ヒミカが意識を取り戻した後、私達はその経緯を本人から直接問い質すこととなった。
しゅん、と項垂れて胡坐をかいているヒミカを全員で取り囲む。
「どうして、あんな戦い方をしたんだ?」
「すみません……オルファが、危険でしたから」
「でも、1人で戦うことはないだろ? 不利になるのが目に見えてるんだからさ」
「はい。それはわかってます、けど……」
「まぁ、無事なのはよかったけど、ハリオンがいなかったら、一体どうなってたことか」

「…………」
黙ってやり取りを聴いていたが、途中で奇妙なおかしみを感じ、苦笑しかけてしまった。
笑い事ではないのだが、しかし。
隊長という職務を理解せず、いつも自分一人で飛び出し、何とかしようとする。
彼が言っている事は、正に少し前の彼そのものの事ではないか。
そしてそれは今も、基本的には変わっていない。それなのに、同じ事をしたヒミカを訥々と諭している。
呆れながら、ふと思いついた。
これは、いい機会だ。ヒミカにも、そして彼にも。確かめたかった事も確認できる。
「ごめん、ハリオン……」
「もう、慣れていますから~」
「その慣れたあなたが、力を出し切ってしまうほど、深い傷だったんでしょう?」
タイミングを見計らって、ハリオンに話を振ってみた。

まだぺたんと腰を下ろしたままのハリオンが、おっとりと見上げてくる。
「さっきの場所は緑マナが少なかったですからねぇ」
「でも、今日だけじゃない。ヒミカ、いつも1人で突出しすぎてないか?」
すると予想通り、当然と言わんばかりに同意を示すユート様。
「それは……」
「アセリアも出過ぎるけど、それとは状況が違う気がする。なんか追いつめられてる感じというか……」
「……わたしは、守りたいんです。仲間が倒れるのを見たくなくて、だから……」
「だから、自分が倒れるのは平気なのか?」
「そ、そういうわけでは」
ヒミカは泣きそうな表情を浮かべ、俯いてしまう。彼女の言いたい事もよく判る。
基本的には、同じなのだ。私達スピリットは、仲間という絆が一番大事だから。
「でも、そうなってるだろ? なぁ……もう少し、俺のこと信じてくれないか」
「わたしは……ユート様のことを信じています。命令にも従いますし……」
「そうじゃない。もっと、仲間として信じて欲しいんだ」
そして彼は、判っているのだろうか。今自分の言っている事を、私達も強く望んでいる、という事が。

「俺はエトランジェだし、確かに本当に辛い部分はわかってないかもしれないけど……それでも、さ」
ゆっくりと、ヒミカの目線を逸らさせないように、ユート様は強い口調で語り続ける。
「大切な仲間が凄い傷つくのは、嫌なんだよ」
「いえ、そんな……わたしは、ただ、みんなのために……」
「それが本当に、みんなのためになるかしら?」
「え……?」
突然割り込んだ私の言葉に、ヒミカだけではなく、全員の視線が集まった。

皆、訝しげな表情をしている。当然だ。
何故なら私はヒミカではなく、ユート様の顔を見据えて話していたのだから。
「ヒミカ1人が危険な場所に立って、みんなが納得する? みんなにとっても、あなたは大切な仲間の1人なのよ」
「あっ……」
「あなたが倒れそうになれば、みんな自分の場所を放棄してでも駆けつけるでしょうね」
ユート様は棒のように硬直したまま動かない。ヒミカは交互に私とユート様を見ながら戸惑っている。
「今日は余裕があったからいいけど、次もそうとは限らない。いい? はっきり言うけど、自己犠牲は迷惑よ」
ハリオンは……相変わらずにこにこと見守ってくれているけど、いづれにせよ構わなかった。
「……少なくとも、わたしたちにとってはね」
言い切り、尚も見つめ続ける。少しの間、周囲に軽い緊張のようなものが張り詰めた。

「ごめん、セリア……それから、ユート様もすみませんでした」
ようやく状況が掴めたのか、ヒミカが愁傷な口調でぺこり、と頭を下げる。
「わかればいいのよ」
それにあえて、殊更冷たい口調で言い放った。もちろん、彼を見たまま。表情の変化を少しでも見逃さないよう。
「…………」
「…………」
彼は、瞬きもしなかった。そしてその代わり、真面目な表情を崩さず見つめ返してくる。
まるで私の意図を確かめるように。籠められた言葉の裏を、慎重に探るように。

「…………」
「…………」
「……ああ、そうだな」
やがて瞳に強い光を保ったまま、ほんの僅か、小さく頷く仕草。
それを見て、安心した。小さく息をつく。
あの我ながら乱暴な励ましで何とかなったとは到底思えないけど。もう、大丈夫だ。
「……なんて、本当はわたしがもっと早く言わなきゃいけなかったのよね」
私はようやくヒミカに振り返り、冗談まじりに微笑むことが出来た。

「そんなことない……わたしが自惚れてた。自分1人で、全員を背負うつもりだったなんて……」
「それって、わたしも?」
「いや、セリアは入ってなかった気がする」
「クスッ……なによそれ」
「ふふふ……やっぱり、みんな仲良しなのがいいですねぇ~」
ヒミカも、そしてハリオンも悪戯っぽい視線で微笑みを交わしている。
ここまで来ると、流石に二人とも私の意図に気づいていた。
何故なら、いつの間にか私達に取り囲まれていたのは、ユート様だったのだから。
当の本人はばつの悪そうに頭を掻きながら、誤魔化すようにヒミカと呼び名について語っている。
その様子を、私は一歩下がった後ろで大人しくじっと眺めていた。

やがてハリオンがのんびりとした口調で告げる。
「さてと~、そろそろ戻りましょうか」
「そうだな。みんなも引き上げ始めているみたいだし。それじゃ、帰ろうぜ」
「ええ」
「わかりました」
「ユートさま~、帰りも運んでいただけませんか~?」
「え……まだ、立ち上がれないのか?」
「あれって、と~っても、らくちんなんですよぅ♪」
「……歩 き な さ い」
少し余裕が出来たせいか、何故か私の方を見ながら片目を瞑るハリオンに、思いっきり冷たい口調で突き放していた。