胡蝶

Ⅳ-3

薄暗い、もやのかかった粘り気のある空気。染みの酷い天井。生臭い匂い。
どこか遠くから、定期的に響く細かい潤んだ音に目を覚ます。
「ん……あ……」
「ん? 気づかれましたか?」
「ここは……くっ! 痛っ!」
じゃり。起き上がった私は、自分の四肢に絡みついた鎖に戸惑いながら身を起こした。
ついた手の平から伝わる湿ったシーツの不愉快な感触に、ベッドに寝かされていたのだと気づく。
「おや、まだ動けますか。ですが、暫くは安静にしていた方がいいですよ」
「何を……きゃあっ!」
慌てて胸を隠す。足をすぼめ、背を向けた。服を、全部脱がされている。自分の身体を見下ろして、背筋が凍った。

汗に張りついた髪。所々に残る、赤い痣。そして痺れるような、――――下腹部に感じる鈍痛。
「ま、まさか……」
「クックッ……散々可愛がってあげましたからねぇ。今更、恥ずかしがる事もないでしょう?」
「――――――ッッッ!!!」
涙が零れそうになり、必死で耐えた。まさかまさかまさか。ぐるぐると同じ思考が頭を埋め尽くす。
身体中ががたがたと震えだし、両肩をぐっと押さえた。可笑しそうに見ていたソーマが弾けるように笑い出す。
「はーっはっはっは! そう、その態度が大事なのですよ! スピリットは、人に従属してこそなのですから!」

ソーマの座っていた椅子が弾け、がらんと倒れた。手が伸びてきて、ぐい、と無理矢理顔をそちらに向けられる。
迫った顔を、もう正視出来なかった。俯いたまま、唇を噛み締めて嗚咽を堪える。
そこへ、更に見せびらかせるように差し出される、見覚えのある紙。ソーマは傍のエーテル灯にそれを近づけていった。
「……それはっ!」
「ふん。スピリット同士でこんな人間の真似など、僭越も甚だしい。下らないままごとですね」
「やめてっ!!!」
手紙。ずっとお守りがわりに持ち歩いていたそれが、叫びも虚しく目の前で燃やされていく。
ちりちりと焦げ付いた匂いの中、私の中で憎しみの感情が狂おしいほどに爆発していた。
「――――殺して、やる」
低く呟く、呪詛。しかしソーマは一瞬だけ不思議そうに動きを止め、そして身を乗り出してきた。

「ククク……その台詞、快楽に溺れた後でも言えますかね。これは見ものです」
「ヤッ! この……触らないで! ……嫌あっ!!」
「そう、叫ぶのです。スピリットは人に逆らえないもの……それを身体に教えて差し上げますよ」
「あうっ!」
強引に肩を押され、抵抗も出来ずにベッドに縺れたまま倒れこむ。
同時に両手を頭の後ろに押し込まれ、身動きが取れなくなった。
こんな下卑た男に、全身を晒してしまう。耐え難い絶望感と悔しさで、気が変になりそうだった。
乳房に顔を近づけながら舌なめずりをしたソーマに鳥肌が立つ。
睨み返したが、視線に力が入らないのが自分でも判った。怖い。間に入られ、割られた両脚が細かく痙攣する。
内股をざりざりと摺り上げてくる肉体の感触の気持ち悪さにぎゅっと硬く目を瞑った。

「さあ、どこまで耐えられますか――――何っ!?」
その時、ずうんっと鈍い振動が部屋中に響いた。続いて近づいてくる、慌しい気配。
「何ですか……おい! 何が起きたのですか…………うおっ!!」
ばたん! その、扉を開けるにしては乱暴な音に、ソーマは慌てて身を起こし、振り返った。
そこに立っている人物を、つられるようにぼんやりと目で追う。狭い入り口から飛び込んできた高い背。
所々薄汚れた白い羽織。緑のマナを纏う、巨大な、無骨な剣。乱雑な黒い髪。そして、漲るオーラの気配。
「……ここかっ!!」
「ユ、ユート様?!」
彼の姿を確認した途端、身体中からいっぺんに緊張が抜けた。

「どうして、ここへ……?」
「ッッ! セリアッ!」
ベッドの上に組み伏されている私を見て、ユート様の表情がみるみると変わっていく。
「ゆ、勇者殿……一体、どうやって!」
「ソーマ……セリアに、何を、した?」
低く問い詰める声。狼狽したソーマの気配が背中から聞こえる。『求め』から放たれるマナが尋常では無い。
恐らく、ソーマは悟っているだろう。確定した、自らの死を。自分で言っていたのだ、人は神剣には勝てないと。

「――――ッッ」
鎖に囚われたまま、慌てて身を捻った。
助けに来てくれたのは嬉しいが、こんな姿は見て欲しくはない。もう、私は汚されて――――
「――ふう、やれやれ……別に、まだ何も。多少大人しくはさせましたがね、意識の無いものを嬲ってもつまらないのですよ」

 ――――え?

「それはそうと勇者殿。ここは取引といきませんか? この妖精は、お返ししましょう。その代わり……」
落ち着きを取り戻したのか取り繕っているのか、淡々としたソーマの口調。
しかし言葉の意味を悟った私に、それは悲しい程逆効果だったといえるだろう。
「ここは見逃せ、と? ……ふざけるな、お前はここで倒す」
「いいのですか? 美しい人質がどうなっても? …………は?」
「殺す、と言ったわよね」
「ヒッ――――」
ガッ! 振り返ったソーマが驚愕の表情で息を飲む。いや、飲む事さえ叶わなかっただろう。
それもその筈だった。彼が捕らえていた人質(私の事だ)は、
長い二人のやり取りの間に自分のマナを使って拘束していた鎖を無理矢理外し、背後に忍び寄っていた。
矢傷で傷む右手に左手を添え、そのまま喉元に走らせてぎゅっと握りつぶす。首を絞められ、ソーマは目を白黒させた。

「ぐ……ごほっ! い、息が……は、離せっ! 離しなさいっ!!」
「体を? 地面から? それが最後の願い?」
じたばたと暴れる体を浮き上がらせる。ひゅーひゅーと漏れる音。口元から伝う泡のような涎が手に気持ち悪い。
「なっ……! こ、この、妖精、の、分際、で……」
「大人しくなさい。いい事を教えて上げる。私――――人間なんて、大嫌い」
ごきり。
「がっ――――」
くの字に曲がった首を、どさり、と放り投げる。ソーマはもう、動かなかった。

「セリア……あのさ」
「ユート様、時間は?」
「え、ああ。そろそろだな。すぐに増援が来るだろう」
「はい。あの、少し後ろを向いていて貰えますか?」
「え……うわ、ごめん!」
真っ赤な顔をして背中を向けるユート様。そんな過剰な反応をされると、こっちも困る。
部屋の隅に放り投げられていた戦闘服と下着を取り、手早く着込む。その間、彼はずっと髪をがしがしと掻いていた。

「――――お待たせしました」
「ん。あ、ほら『熱病』。途中で見つけてきた。……身体の方は大丈夫か?」
照れ臭そうにそっぽを向いたまま、差し出される『熱病』。受け取り、腰に吊るす。だから、その反応は止めて欲しい。
「問題ありません。ありがとうございました。さ、行きましょう」
あえて平板な口調を保つ。実をいうと、さっきから心臓が激しくなりっぱなしだった。
まだずきずきと痛む傷や痣とは別に、妙に火照ってくる体。感情を隠すので精一杯――――何で隠す必要があるのだろう?
「お、おう。こっちだ」
「はい……あ…………」
「おっと。あまり無理するな。しっかり掴まってろよ」
「…………すみません」
限界に近い体力が、足元をふらつかせてしまった。掴まれた手が、力強い。
引っ張られながら、見上げてみた。前をいく大きな背中に目を細めた。

小屋を飛び出すと、外はいつの間にかどしゃぶりの雨だった。
目覚めた時に聞こえた音は、雨が天井を叩く音だったのかと変な所で納得する。
「いたぞっ! 南だっっ!!」
ソーマの根城は、トーン・シレタの森の中だった。つまり、私はそのすぐ側で捕らえられた事になる。
屋外へ出た途端敵に捕捉されてしまったのは、当然といえば当然だった。
森を叩く雨音に掻き消されないよう、目の前を走る背中に叫びかける。
「ユート様! 一応確認しますが……味方はっ?!」
「ああ?! 何? 何だって?!」
「だから、味方です! 合図を!」
「合図なんて無いよ! それより急げ! 二人じゃ勝ち目が無いんだからなっ!!」
「――――なっ!!」

緩やかな斜面の向こうに草原が見える。森の出口に向かって滑り落ちる白い羽織。
続いて駆け下りながら、呆れた。思わず口にしたのか、“二人”って。それはつまり。
「まさか、お一人なのですか?!」
「いいから、今は逃げるんだ!」
草原は、身の丈まで達する程、細い草に覆われていた。飛び込んだ瞬間濡れた葉が身体中に絡みつく。
「……信じられない! 少しは自分の立場というものを考えたことがおありですかっ!!!」
「しかたないだろ! セリアが心配で居ても立ってもいられなかったんだから――――うおっ!!」
「なっ! なな、何を言って――――きゃあっ!!」
ずぶ濡れになった髪から飛び散る雫に視界が曇る。前髪を払い、問い詰めようとしたところで――――落ちた。

「ずいぶん、深い穴だな」
「……ええ」
草に覆われ、全く見えなかった竪穴。丁度人一人が入れそうなその穴を、私達はものの見事に踏み抜いていた。
ハイロゥを開く余裕も無く落下し、気づくと暗いじめじめとした空間。
雨が降ってこないところをみると、相当深い穴なのだろう。空を見上げても真っ暗で何も見えない。
二人とも怪我をしなかったのが、僥倖といえなくもないけど。

「……言っても、怒るなよ。深い意味は無いんだ」
「……なんですか、その遠回しな言い方は。男でしたら、はっきりと仰って下さい」
「む。じゃ、言うけど。その、重いから、早くどいてくれないがふっ」
「すみません。肘が当ってしまったようです」
「ぐっ、ごほっ……だから言ったじゃないか。ほら、横穴があるから」
「……ふんっ」

暗闇に目が慣れてくると、どうやら動物の棲み家らしくあちらこちらに木の実や木の枝が散らかされている。
言われた通り、横穴が少し広い。多少ゆとりのある空間に身を滑り込ませると、ユート様も続いて入ってきた。
広いといっても二人も入れば一杯である。自然、向き合う形で密着してしまった。
息がかかるような距離にどきり、とする。伝わる体温に、心臓の動悸を見透かされてしまうようで怖い。
急に、ソーマに触れられてしまった所が気になった。汚れてはいないだろうか。奴の匂いが移ってはいないだろうか。

「……ちょっと、余りくっつかないでくれませんか?」
「そんな事言ってもこのままじゃ敵に見つかっちまうし、狭いからしょうがないだろ……よっと」
「な、ど、どこを押し……ひゃっ?!」
「え?」
「あ、な、なんでもありません……ンッ……」
「??? なぁどうしたって」
「静かにっ! 声を出さないで……………………響くから」
「お、おう……」

それきり黙りこんでしまったユート様に何故かほっとする。冷静に状況を考える余裕が出来た。
何にせよ、肌に纏わり付く服の気持ち悪さを少しでもどうにかしたい。
見えない角度かどうかを念入りに確かめ、そっとスカート部分の裾を掴む。
太腿まで捲り上げ、ぎゅっと絞る。エスペリアが見たら仰天もののはしたなさだが、非常事態なのだから、仕方が無い。
(そう、仕方が無い、仕方が無い。。。。)
自分に言い聞かせるように手早く終わらせ素早く戻す。
しかし結局まだ湿った布が再び太腿にぺたりと貼り付き、余り変化が無かった。
剥き出しの二の腕を傷口に触れないようそっとさすり、汗や匂いをさり気なく確認してみたが、
雨に濡れた両腕では当然ながら自分のものでは無いようなじっとりと冷たい感覚しかしない。思わず溜息をついてしまう。
すると別の意味に取ったのか、それとも沈黙に耐え切れなかったのか、ユート様が口を開いた。

「あのさ、……嫌いだって言ってたよな」
「え……?」
「人間を、さ。うん。いや、判ってるつもりなんかないけど……」
「…………」
言葉に、酷く寂しさを感じて驚いた。表情は見えないが、落ち込んでいる様子が伝わる。
先程ソーマに対して言い放った事を指しているのだろう。確かに、あれは本心だった。
「…………ユート様、この世界で、人は、私達をずっと道具として扱ってきました」
「……そう、だよな」
「勘違いしないで。私は、……少なくとも私は、貴方を信じると決めたのだから」
「俺がエトランジェ……だからか?」
「ユート様が、ユート様だからです」
「…………そうか」
「…………ええ」
「…………」
「…………」
“人”が許せないのは、多分今もなのだろう。警戒や軽蔑は、自分の中で常に生じている。
でも上手く言えないけど、この“人”は違う、それも本心。別の世界から来たから……だけじゃない。
無意識に、手元の『熱病』をそっと探ってみる。するとここが戦場とはとても思えない、不思議に穏かな気配。
暫くして、小さく、ありがとう、と囁きが聞こえた。例えば、こういう所が違うのだ。

「……狭いな」
「……そうですね」
考えていると、気を遣わせたのか、全然別の話題を持ち出された。
なんとなくうわの空で返す。また沈黙。
「…………」
「…………」
「……セリア、ひょっとして熱がないか?」
「え? 何故そのようなことを?」
「いや、風邪引いてるとかじゃないよな」
「大丈夫です。調子が悪い訳ではありませんから」
「そ、そうか、ならいいんだ。…………そっか、セリアってわりと平熱高いんだな」
「…………聞こえてます。特別に平熱が高いと言われた事はありません。後恥ずかしいからそういう事を言わないで下さい」
「ああごめん……って恥ずかしい? 何が???」
「ですからなんでもありません。…………ユート様だって、平熱高いじゃない」
「え? 何か言ったか、セリア」
「な ん で も あ り ま せ ん」
「お、おう……」
狭い洞窟の中が、息苦しいほど蒸し暑い。へたに動くと火照った身体に気づかれそうで、身動ぎ一つ出来なかった。

「セリアぁ~、どこぉ、どこぉ~!?」
「あ」
「おっ」
頭上からシアーの何だか震えるような遠い声が聞こえ、同時に顔を上げる。
拍子に間近で見えた黒い瞳が、とても優しそうな、安心させる笑みを浮かべていた。
慌てて俯く。先程落ちる時に聞いた言葉を突然思い出し、恥ずかしくなってきた。
「ユート様ぁ! 返事をして下さいまし!」
「ぱぱぁ~! オルファが来たよ~!」
「いないね~……お菓子上げたら出てきてくれないかなぁ……」
「最悪の場合、既に」
「ナナルゥ、変な事言わないで! ユート様なのよ!」
「ええ~、ユート様なら、大丈夫ですぅ~」
「ユートは死なない。ん、そう私と約束した」
「でも、万が一って事もあるよね」
「こらニム! 冗談でもそんな事を口にしてはだめ!」
「そ、そんなぁ……うう、ユート様に何かあったら……」
「ヘリオン殿、落ち着いて下さい。ユート殿に限ってそんな事は……」
「ネリーもー! ネリーもユート様にマンガイチあったら死んじゃうんだからぁー! ……マンガイチ、ってなに?」

「………………」
「お、ようやく来てくれたようだな。さて出るか。ん?……セリア?」
「……随分、慕われていらっしゃるようですね」
全員揃って部署放ったらかしで駆けつけてくれたのは、多少問題がある気もするが、素直に嬉しい。
ただ、呼びかける声のうち、最初の一声以外で連呼されている特定の固有名詞が何だか面白くない。
「は?……あのさ、なんだか怒ってないか?」
「さて、助けも来たようですし、さっさと出てください。後がつかえてますから」
「…………なぁ、怒ってるだろ? 俺なんかしたか?」
「は、や、く」
「お、おう……」
こうして私達は助かった。戻った後、治療を受けながらみっちりとエスペリアのお説教をくらってはしまったが。