胡蝶

Ⅴ-3

――――最近、何か変だ。そう思うようになったのは、皆が不自然に忙しそうになった頃だった。

「セリアぁお願い~」
「いいけど、今回だけよ。もう、わざわざユート様の看病の時にシアーと約束なんかして」
「へへ~、ごめんね~~」

「セリア、頼む」
「アセリアも? おかしいわね、私には何の命令も無いけど」
「ん。あたりまえ」
「え? アセリア、何か言った?」
「なんでもない。セリア、気にせず頑張れ」
「は? 何を頑張れって……あ、ちょっとどこへ…………」

「セリア、ちょっと宜しいですか?」
「何? ……ナナルゥ、まさか貴女もなの?」
「はい。至急との任務を言い渡されました。ユート様の看病を替わっては頂けないでしょうか?」
「…………はぁ。仕方ないわね任務じゃ……了解」
「はい。任務ですから」

「あ、セリア、ごめん。ちょっと用事があるから頼まれてくれる?」
「……わかったわよ」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさ~いッ!!」
「………………」

こんな感じで、周囲だけが予定だらけになって手が回らないらしい。
自分だけに何の指示も無いのは妙だが、これではまるで皆がユート様の看護を避けているようにも思える。
「…………まさか、ね」
釈然としないまま、いつの間にか殆ど私が着きっきり、という状態になってしまっていた。

そうして月の名前も替わる頃。

「俺さ、残ることにしたよ」
「え?」
がしゃん、と床に転がる激しい音。
持っていた皿を、思わず取り落としてしまった。
「…………セリア?」
「あ、あっ! す、すみませんっ!」
はっと我に返り、慌てて拾う。手が小刻みに震え、中々上手くいかない。
そんな私の様子を見守っていたユート様が、がしがしと頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「あっ……と、驚かせちまったかな? でもさ、みんな頑張ってるんだろ? 全部放り出して俺だけ今更なんて――――」
「ユート様、お話があります」
「え? お、おう……」
言い続ける彼をぴしゃりと打ち切らせ、表情を取り繕う。殊更引き締めた顔で睨み、椅子に座りなおした。

ただならぬ私の雰囲気を感じ取ったのか、真面目に姿勢を正し、こちらを見直す彼。
危うく逸らしそうになった目線を元に戻す。冷静に、そう言い聞かせながら口を開いた。
「ユート様、貴方は帰るべきです。カオリ様をお一人にさせるおつもりですか? それに――――」
本当はこんな事を改めて告げたくは無い。しかし、言わなければこの人は理解してくれない。
「剣だって、もう無いではないですか。残ったとして一体何が出来るの?……死んで、しまうわ」
一息で言い切るつもりだったが、語尾が僅かに掠れてしまう。俯くと、床に匙が落ちたままだった。
気を取り直して顔を上げる。すると、彼は意外なほどふっきれたような表情をしていた。
「いや、ああ……うん。まずさ、佳織とはちゃんと話したよ。大丈夫。佳織はもう、大丈夫なんだ」
「え……でも、家族なのでしょう? それなのに、家族なのに、離れる事が辛くはないのですか?」
「セリア、違うよ。家族だからこそ信じてるんだ。佳織は一人でも、生きていける。そう信じられるよ、今は」

「………………」
重苦しい沈黙。
それを確かめるように、ユート様はゆっくりとした口調で続ける。
「なぁセリア、生きるってなんだろうな。俺達って、何のために生きていると思う?」
「それは……私達はスピリットですから――――」
反射的に言いかけて、息を飲んだ。

覗き込むような視線が黙ってこちらを窺っている。
吸い込まれそうな黒い瞳が違うと言っている――――すぐに、気づいた。
「……判りません。でも、ユート様は仰いました。“戦い以外にある”と。……本当に、私達にもあるのでしょうか?」
「佳織はそれを、見つけたんだ。……あのさ、俺、助けられないかな? セリアやみんながそれを探すのを」
「――――っ!? で、ですが」
「確かに戦いには参加出来ないかもしれない。でも、ここにある気がするんだ。きっと俺の生きる意味が、さ」
「そ、それは………………」
「…………セリア?」
「~~な、なら、大人しく寝ていて下さい! 怪我人のくせにそんな事を言うなんて、生意気だわっ!!」
「は? お、おいセリア、何言って」
「すぐに替えの食事をお持ちしますっ! ですから勝手に出歩かないで下さいっ!!」
「え、あ、ああ……サンキュな」

ばたん!

飛び出すように部屋を出た途端、耐え切れず、勝手にウイングハイロゥが開いた。
屋内で非常識に開かれた両翼が乱れた感情に呼応して、壁や窓にぶつかってはぱたぱたと羽ばたく。
その度に舞い落ちる白い羽のせいでそこら辺が真っ白になったが丁度良い。
「落ち着け……落ち着くのよ……」
両手で包むように押さえると、異常なほど熱い頬。おそらく既に真っ赤だろう。
他の仲間に見られたら、何を言われるか判らない。悪くなった視界が、それを隠すのにはおあつらえ向きだった。
深呼吸をして、息を整える。誰も居ない事を確認してから、そっとウイングハイロゥを閉じた。
散らばった羽根が急速に金色のマナに変わり、消えていく。

「…………絶対に、守ってみせる」
あんな事を言われては、もう帰れとは言えない。
それに、カオリ様には申し訳ないけど。彼が残るということを、心のどこかでほっとする自分もいた。
「だから……早く、元気になって下さい…………」
見慣れた廊下の奥に向かい、歩き出す。踏み出した足取りはいつになく軽く、そして確かなものだった。


「セリア、二人でどこかへ行ってみないか?」
「…………ハ?」
それは、正に青天の霹靂というに相応しい出来事だった。

「いやだからさ、ようやく歩ける位には回復してるんだから、散歩がてらにどうかなって」
「………………」
カオリ様が元の世界に戻られて数日後。私は看病の為に訪れた隊長の部屋で、予想外の言葉に固まってしまっていた。
あまりの衝撃に、咄嗟に何も反応を返せない。『熱病』を取り落とさなかったのは、奇跡といっていいだろう。
言われた意味を正確に理解しようと必死に頭を巡らせる。
「…………セリア?」
「は、はいっ! なんでしょう?」
「なんでしょう、って……そうか、そうだよな」
「え? あ、あの」
目の前で手の平をひらひらとされて、慌てて我に返る。
すると何を判断したのか、彼はがっくりと肩を落とし、項垂れてしまった。意味がわからない。
「…………ユート様?」
「はは、ごめんな無理言って。セリアだって忙しいのにな」
「え、え? ……ちょっと」
俯き、ぼそぼそと何か弁解のような事を述べている。すっかりしょげ返った様子に、かえって冷静になれた。

――――勝手に悪い方へと結論付け、そして勝手に落ち込むところは相変わらずだ。
第一印象の頼りなさは変わっていない。もっと堂々としていればいいのに、といつも歯痒くなる。
それとも、はっきりと言わないと判らないのだろうか。…………判らないんだろうな、この人。
「気にしないでくれ。悪かっ――」
「誰も、嫌だとは言っていないわ。だけど……いいの? 私は」
「え? 本当にいいのか?!」
「え、う、うん……あ、ユート様?」
「よしっ! じゃ、早速行くか。あ、エスペリアには内緒だからな。本当はまだ止められているんだ」
「ちょ、ちょっと待っ――――」
人の話を聞け。そう言いたかったのだけれど。
「どこがいいかな……っと、俺、あんまり地理に詳しくないんだっけ。セリア、どっか良い所知らないか?」
「………………」
あまりに、嬉しそうな顔。その子供っぽい表情に何も言えなくなってしまう。
動揺していた事が馬鹿らしく思えてきた。……それにしても一体、何故こんなにも簡単に折れてしまうのだろうか、私は。
「…………ふぅ。じゃあ、あそこへ行きましょう。傷にも良いだろうし」
私は溜息交じりに、出来るだけ呆れたような口調で提案していた。


予想通り、街を抜ける時には好奇の視線に晒された。
それも当然、“人”を支えるようにスピリットが寄り添って街中を歩いているのである。
こうなるだろうとは思っていたが、近道をしようと考えたのが拙かった。
彼の体調を考慮したつもりが完全な逆効果である。
擦れ違った女性と目が合いそうになり、思わず下を向く。何だか情けなくなってきた。

「はは、なんだか注目されてるな、俺達」
「…………ごめんなさい」
更に追打ちのような、患者様の一言。
だからどうしてこう、この人はタイミングというものが悪いのだろう。
支えた腕の影から睨みつけてみる。しかし逆光でやや暗いユート様の表情は、意外にも微笑んでいた。
「いや、別にセリアのせいじゃ……いや、セリアのせいか。みんな、セリアに見とれてるしな」
「え? は? …………ぁ」
「逆に俺は睨まれっ放しか。まあしょうがないなこんな美人連れてたら。やっかみは男の……なんだっけ」
「ばっ~~~!!」
言っている意味が判った途端、顔からぼんっ、と火が出た。
肩で支えていた大きな腕を力任せに振り払う。よろけた彼を放っておいて前へ、前へ。

「お、おいセリア、待て、待ってくれって! 俺怪我人なんだぞ!」
「いいから早く歩いて下さい! 置いて行くわよっ!!」
いつの間にか注目している周囲からくすくすと忍び笑いが漏れ出した。思わずじろり、と睨み返す。
一瞬で静かになったが、それがかえって恥ずかしさを増長させた。もう後ろなど、振り返れるものではない。
なのに背後から、追いすがるような情けない声。
「いや俺まだ上手く歩けな……痛てててっ!」
「~~~~もうっ! 仕方ないわねっ!! ハイロゥッッ」
じれったくなり、ウイングハイロゥを広げる。
そしてくるり、と踵を返し、『熱病』の力を充分に引き出した。彼の表情が引き攣り始める。
「な、なんだどうした?! おいセリア、こんな街中で」
「だから誤解されるようなことを言わないでっ! ……舌噛むわよっ!!」
「う、おおおおおっ!!??」
哀願の声を無視し、その身体を持ち上げた。
そのまま全力でその場を飛び去る。最初からこうしていれば良かったと心の底から後悔しながら。

~~我が国が所有している二大森林地帯の内、国の南側に位置するリュケイレムの森。
  そこには無数の広葉樹が脈々と生え、風に揺れる緑が自然に落ち着いた穏かな印象を醸しだしている。
  豊富な水と柔らかい日差しが生み出す生命の息吹。私達スピリットにも分け隔てなく与えられる、数少ない世界の恩恵。
  何より森の奥深くに立ち入れば、殆ど人の姿を見かける事などはない。
  戦いだけを許された存在として忌み嫌われている私達にとっては、そこは安息を感じられる数少ない憩いの空間だった~~

「へぇ、こんな場所があったんだな」
お気に入りの、そして秘密の場所。
そこへ初めて招待した“人”は、感嘆混じりにそう呟いた。

「ええ……好きなんです、ここが」
緩やかに流れる風に、そっと前髪を押さえる。優しい薄緑色の木漏れ日。目を閉じれば草の匂い。
胸の鼓動が段々収まっていく。とくん、とくん、という規則正しいリズムが、
やがて大地に融け込み安らぎに包まれるような感覚に替わっていく。
ここには、嫌なことは何も無い。
存在を否定される事も、忌み嫌われる事も、同胞同士で殺しあう事も。
――――スピリットでも、“生きていてもいい”、そう思わせてくれる。

「ああ、いいもんだよな、こういうの。何だか落ち着けるっていうか」
どうしてここへ来たかは判らない。
出発前は高台に誘おうと思っていたのに、夢中で逃げていたら、森に向かっていた。
広大な緑の景色が見えてきた所で一瞬迷ったが、結局はここへと降り立ってしまっている。
「よっこらせっと……ふぅ。セリア、座らないか?」
一際目立つ大木の根元。太い幹に寄りかかるようにして、彼が手招きをしている。
以前なら、そこに“人”が居るというだけで不愉快になっただろう。
気分を台無しにされたその代償に命を奪う事まで考えたかもしれない。それほど大切な“聖域”だったから。
――――だけど、一度深呼吸して瞼を開いた今の私は。
「…………はい」
振り向き、素直に微笑み、頷き返す事が出来ていた。

「あー、いい天気だなぁ」
「……何故、私を連れ出したのですか?」
「は? なんでって……いや、でもなんでそんな事訊くんだ?」
適当な距離を置いてから、並んで腰を下ろす。暫くぼんやりと空を眺めた後、思い切って切り出した。
すると同じように木々や鳥の囀りに聴き入っていたらしい彼が、不思議そうにこちらを見つめてくる。
私は膝の前に揃えた両手の拳を一度ぎゅっと強く握り締め直さなければならなかった。
「ですから、どうして私を? こうなることは、判っていた筈です。私は……スピリットなのよ?」
ここ数年、戦いの中で価値観の変化が生じていたのか、確かに人のスピリットに対する偏見は少なくなっている。
それでも妖精趣味――考えるのもおぞましいが――という言葉に代表されるように、根強い反感が残ってるのもまた事実だ。

「………………」
考えていると、更に不思議そうに首を傾げ、黙ったまま覗き込まれてしまった。反射的に仰け反り、うろたえてしまう。
「な、なんですか……?」
「…………そっか、そうだっけ。忘れてたよ」
「――――は?」
「うん、忘れてたな。はは、俺、ただ思っただけでさ。セリアとどこか、一緒に行きたいなって……やっぱり嫌だったか?」
「そ、それは……嫌、なんて……」
ある意味あっけない答えに、私は口をぱくぱくさせたままで動けなくなっていた。
ただ虚ろにゆっくりと首を横に振る。嫌なら、ここには連れてはこない。そんな言葉がどうしても思い浮かばなかった。
「俺さ、こうやって女の子を誘うのって初めてなんだよ。でも何だか楽しいよな、こういうのも」
「女の子って……止めてください」
苦笑いをしながら続ける彼に、ようやく声を絞り出せた。当初の疑問を思い出す。
「どうしてユート様は、その、当たり前のように、同じように私達に接するのですか。私達は、“人”とは違うのに」

「それなのに生きろなんて言うし……おかしいと思わないの? 他の人と同じように命令とかすれば、……いいじゃない」
言っていて、胸が痛くなってきた。段々掠れていく語尾に勢いがなくなってくる。
どうしてこんなに苦しいのだろう。先程までの穏かだった鼓動が、不自然に耳に高く響いてくる。
自分でも、卑屈になっているのが判った。でも、仕方が無い。事実は事実。私達は、スピリットなのだから。
なのに彼はきょとん、としたまま、

「なんで? セリアは女の子だろ? スピリットとか、それ以前に」

  ――――俯いてしまった私に投げかけられた、そんな魔法のような言葉。

「~~~~!!」
当たり前だろ、と言わんばかりの彼を、思わず上目遣いで見上げる。
すると自分で言っておいて恥ずかしいのか、彼は目線を逸らして頭をがしかしと掻いていた。
「逆に訊くけど、俺だってエトランジェだ。この世界じゃ異端だぜ? なんでセリアは俺を人として接してくれるんだ?」
「そ、それは……でも」
「隊長だからか? でもそんなの、正直以前は否定してたよな、セリア。まぁ俺が不甲斐ないからだったんだけどさ」
「違わっ! …………ない、けど」
「うん。でもそれでも、色々と助けてくれた。感謝してる。言い方は悪いけど、スピリットのみんなだけだったんだ」
「……それは、ユート様、だから――――」
「だろ? だから俺はセリアと出かけたかったというか、人とかそんなの関係なしにって……うわ俺、何を言ってるんだ」
「………………」
「ええっとさ、……うん、セリアだから、誘ったんだよ。好き嫌いに人もスピリットも関係ない、そうだろ?」
夢中で気忙しく動かしている右手。不自然な挙動に自分で気がついてはいない。
――――いつの間にか、それが照れ隠しの癖だと知ってしまっている。

何だか可笑しくなってきた。胸の痞えが静かに融けていく。
「……少なくとも、隊長が隊員に言うべき台詞じゃありません」
「う。いや、違うって。あ、でもエスペリアには内緒だぞ。こんなの知れたら何を言われるか」
「――――ふふ、どうしようかな……そう、それならユート様も、一つ約束をして下さい。それでお互い様よ」
「お互い様って……まぁいいや。で、なんだ?」
「この場所を、誰にも教えないと。……出来るだけ、知られたくはないの」
「…………うん、そうだな。二人だけの、秘密だ。それでいいか?」
「はい、ありがとうございます…………あ……」
そっと肩を引き寄せられる。適当に取っておいた距離は、気づけば寄り添うような形で0になっていた。
少し驚いたが、ゆっくりと身体の力を抜く。彼の広い左肩にこつん、と頭を乗せると、面白いほど焦っている気配。
……自分で抱き寄せたくせに。笑いを噛み殺しながら見上げる。逆光の中でも判るほど、彼の顔は真っ赤になっていた。

ゆるゆると、穏かな空気の流れが草の匂いを運んでくる。
少しずつ流れていく白い雲。影を揺らす木の葉のささやき。
世界が、こんなにも優しい時間を与えてくれた事が、かつてあっただろうか。
「……いい風、だよな。絶対に守りたい。そう思えてくる」
「ええ……気持ちがいい……」
目を細め、そんなユート様をいつまでも見つめていた。
(私も……誘われて、嬉しかった……)
脳裏を掠める、リアの顔。おぼろげに映る輪郭は、確かに今、私に微笑み返していた――――