胡蝶

Ⅷ-1

さくさくと軽い音を立てながら、雪に覆われた山道を登る。
敵に対してはまさに仇敵、と言うほど馴染みのあるトキミがその気配をより詳しく探る為、先頭を歩いた。
その後に、ラキオスの仲間達。しんがりを私と悠人が努める。

エターナルミニオンは強敵だが、元々がスピリットのコピーでもあり、
個々に対して集団で向かえばアセリアやエスペリアでも何とか戦えた。
それでも向こうが群れて殺到してくる場合は私達が相手になる。
エターナルになって判ったが、ミニオンというのは戦闘力だけ取れば図抜けている。
ロンドで一対一の戦いをしたが、それは今思えば冷や汗ものの行動だった。
あの場にもう一人居たら、私は確実に今この地には存在できなかっただろう。

年少のネリーやシアー、オルファリル達も、皆のサポートとして頑張っている。
ソスラスに着いた夜、寝静まった部屋をこっそり覗き込んでみると、寄り添うように一箇所に固まって眠り込んでいた。
ヘリオンがネリーとシアーに揉みくちゃにされて少々寝苦しそうだったので、少し離してやる。
「ニムが……お姉ちゃんを……守る……」
普段ファーレーンにべったりなニムントールまでがその中に混じっている。
これまでの戦乱を経験し、彼女達なりの決意や結束があるのだろう。
そっとずれたシーツを掛け直していると、耳元で更に小さな寝言が聞こえてきた。
「う、うう~ん……頑張りますぅ……」
「負けないんだからぁ……」

「……そうね。これからは、貴女達の時代なんだから……」
起こさないよう呟きながら、そっと乱れたネリーの髪を撫でる。
その頼もしい寝顔達は、不思議な勇気を私に与えてくれていた。

広間にも、顔を出してみた。
するとそこにはさっき見た年少組以外が何故か全員揃ってしまっている。
一番手前に座っていたヒミカが振り返り、余り驚いてはいないような声をかけてきた。
「あら、セリア。貴女も寝てなかったの?」
「そういうヒミカこそ。ウルカ、何かあったの?」
「丁度良いところへ。今から皆で相談しようとしていました」
「相談? なんの?」

部屋は、薄暗い。マナの濃い地方なのに、何故かエーテルの灯りは弱々しく感じられた。
ゆらゆらと揺れる皆の影が壁に映し出されている。誰も答えを返してこない。
輪の中心に座る、エスペリアに顔を向けてみた。すぐに深いエメラルドのような濃緑の瞳が見返してくる。
私はその視線の奥に感じられるいつもと同じ慈愛の表情を見て、彼女の意志を理解した。
「……そう。置いていくのね」
「ええ。純粋に戦力として考えた場合、副隊長としては選ぶ判断ではないと思いますが……」
「ううん。私もそれが良いと思う。……私達はスピリット、だから」
「……ん」
隣で、すぐに頷くアセリア。それにハリオン、ナナルゥ、ファーレーン。全部を言わなくても、判る。
この戦いで、失うわけにはいかない大切なもの。この戦いの後にこそ、必要なもの。皆それを、判っている。
「みんな~、幸せになれるといいですねぇ~」
穏かで、それでいてやや遠い目をしたハリオンの優しい一言が、その場にいた全員の覚悟を代弁していた。

出発は夜明け前、まだあの娘達が目を覚まさないうち、山並みの端(は)に朝日が差し込む刻と決まった。


ラキオスの詰所ほどではないにせよ、ある程度は整えられた厨房で、エスペリアが最後の食事を用意している。
同じく料理の得意なハリオンやヒミカの姿が見えない。他の仲間と出発の仕度でもしているのだろうか。
食材で埋まった机の向こうには、保存食の準備もしているのか、結構な湯気が立ち上っていた。
せわしなく動く後姿に懐かしさを感じ、くっ、と鼻の奥が熱くなる。今まで何度、この光景を見てきただろう。
こんな時なのに、昔の想い出が次々とよぎる。感傷的な気分を振り払うのに相応の努力が必要だった。
冷静に、そう自分に言い聞かせながら、背中に声をかける。

「……エスペリア」
「あ、セリア。手伝いに来てくれたのですか?」
振り向いたエスペリアは、すぐに嬉しそうな表情になる。
優しい眼差しに、一瞬言葉が詰まった。それでも、言わなければ。拳をぎゅっと握り締め、近づく。
「出来るだけ軽いもので済ませようとはしたのですが。つい作りすぎますね」
ぺろっと可愛く舌を出し、可笑しそうな口調で、再び手元のまな板に注意を戻すエスペリア。
その子供っぽい仕草や背中は、思ったよりも華奢で小さかった。
昔は、見上げていた背中。いつの間に追いつき、追い抜いたのだろう。
女性的な、丸みを帯びた肩がリズムよく小刻みに動いている。
その小さな肩に、どれだけのものを背負いながら、私達を見守っていてくれていたのだろう。
思わず声をかけるのを躊躇い、遠く想いを馳せてしまう。どれだけそうして懐かしい背中を眺めていただろうか。
ふと、トントンと聞こえていた包丁の音が、ぴたりと止まった。
「……行くのですか?」
「――――!!」
ふいをつかれ、背中に戦慄のような衝撃が走った。

エスペリアは背中を向けたまま、全く動かない。ただ、その肩だけが、まだ細かく震えていて。
「……エターナルは、それほどまでに強いのですか?」
諦めきれない、苦渋のような響きが含まれる。何か言わなくては、そう思うのに、声が出ない。
揺れる緑の服を、ぼんやりと視線が追いかけるだけで。拳を硬く握り締めるだけで。
「……そう。ごめんなさい。こんな時なのに、力になってあげられないなんて」
振り返ったエスペリアの瞳には、大粒の涙が光っていた。

「……どうして」
「セリアの考えくらい、判りますよ。一体何年、一緒にいたと思っているんですか」
無理矢理微笑むエスペリアの、亜麻色の髪が揺れている。気づけば私は涙に濡れた彼女の瞼をそっと拭っていた。
指に伝わる暖かい感覚に、唇をぎゅっと強く噛み締める。搾り出したような声がようやく出た。
「……ごめんなさい」
「……好き、なのですね?」
「……うん」
「……ちゃんと、護れますね?」
「……うん」
「あの方だけではありませんよ。自分もです」
「……うん」
「それじゃ……いってらっしゃい」
「うん、行って来ます――――ありがとう、姉さん」
いつの間にか抱き締められながら、“あの方”という部分に一抹の寂しさを覚える。
それでも、包まれ慣れた両腕の慈しさに、嗚咽交じりの涙が止まることは無かった。
そっと、傍らの『熱病』の力を解放する。さよなら、大好き、そんな想いをマナに籠めて。


『……あ、あら? わたくし……? ここは……』


玄関口に続く暗い廊下。予感めいたものはあったが、やはりそこにぽつん、と小さな人影があった。
蒼い髪の影から両手で抱え込むように持っている『存在』が光って見える。

「……アセリア」
「セリア、行くのか」
「……ええ」
「……そうか」
ゆっくりと顔を上げたアセリアは、相変わらず無表情な蒼い瞳をこちらに向けた。
ぼつぽつと紡ぐ言葉も平板で、短い。それでも、私にだけは判る。そこに浮かぶ、批難の色が。
エスペリアと同じ。どれだけ長い間、一緒に過ごして来ただろう。
「じゃあ、わたしも行く」
「……駄目よ」
「敵は、強いのか?」
「強いわ。アセリアより」
「……む」
「そんな目をしても連れては行けない」
「なんでだ?」
「なんででも」
「……む」
さらさらな髪が、長い『存在』の刀身に反射して橙色に揺らめく。
ぐずっているのが手に取るように判った。こちらを窺っている目線が上目遣いに変わっている。
転送されてきた時から、しばしば観察された仕草。甘える事を知らない私達の、精一杯の反応なのかもしれない。
やがてしぶしぶというように確認してくるアセリアの瞳は、縋るようなものになっていた。
「……帰って、くるのか」
「帰って、くるわよ」
「ユートと、行くのか」
「……うん。『聖賢』は強いから」
「……そうか。ん、わかった」

寂しそうな視線をつい、と逸らす。
「セリアがそう言うなら、そう。心配いらない。ずっと、そうだった」
「……アセリア」
「わたしは、待ってる。だから、これ」
「え? これ……」
「作ってみた。持ってろ」
「…………」
そうして手の平に乗せられた、小さな銀色の塊。刻まれた形に、息が詰まりそうになった。
二本の神剣が、交わるようなデザインのブローチ。『熱病』と――『求め』。
「なんとなく、そうなった……変か?」
「ううん……全然、そんなことないわ……」
憶えているはずはない。それとも、無意識下のどこかに、折れる前の『求め』の印象がまだ残っているのか。
思わずアセリアの小柄な身体を抱き締める。ずっと姉妹のように、側にいた小さな存在。
「ありがとう……忘れない、絶対に」
「? よくわからない……でも、セリアが嬉しいなら、わたしも嬉しい。良かった」
珍しく、微笑んだ顔。浮かべる表情が涙に霞んでいく。こんなにも涙もろかったのだろうか、私は。
手元で静かに輝き始める『熱病』。薄っすらと、思った。
きっと記憶を奪うなどという事は、単なる自分勝手な我が侭。
それがどんなに相手を気遣っての行為だとしても。――――だから、涙が出るのだ。苦しくて、哀しくて。


「もう、いいのか?」
「……ええ。もう、充分」
外で待っていた悠人に、頷き返す。それから、キハノレの方向を見据えた。
私達はそうして暫く、無言で世界を眺めていく。
澄んだ星空を照らす、冷たい月。静けさに、固まった空気のような時間が留まっていた。

「では、行きましょう」
背後に現れたもう一人の人物の声が静寂を破る。
「ロウエターナルの反応はシュンも含め、6つ。初任務にしては、荷が重いですか?」
「……あまり関係ないわ。さっさと終わらせましょう。……トキミ?」
「? どうかしましたか?」
「貴女って……凄いわね」
首を傾げている巫女服姿の少女を改めて見直す。
ロウエターナルはともかく、こんな苦しみを何度も乗り越えてきた彼女の強さには、絶対に敵わないと思いながら。


五つの魔法陣が大地を震わせ、伝播された高密度のマナが飛雪を纏いながら蒸発していく。
遥かに見渡す雪原と遠く重なる峻峰、蒼く輝く月と星々だけが戦いを見守っていた。

「ククク、頑張りますねぇ……ほらほら……」
「はあっ!」

ガッ!

すれ違いざま一瞬だけ交わる刃。その衝撃に“ぶれ”る剣先。
目の前でまだ余裕を見せる痩身の男から注意を逸らさないよう、横目で状況を確かめる。

左手奥に物凄い熱風、そして右手からは鋭く風の切り裂かれる音。
空気が間断無く響き、ずしっ、ずしっとその度に鈍い地響きが辺りを揺るがす。
悠人が『業火のントゥシトラ』、トキミが『不浄の森のミトセマール』と対峙していた。
どちらも、まだお互いに致命傷らしきものは負っていない。形勢も均衡を保っている。
「? ……よそ見、ですか。僕もナメられたものですねぇ」
「それは嫉妬? だとしたら、みっともないわね。心配しなくてもちゃんと相手はしてあげる……今だけだけどね」
「――――フ……ハハハハッ!! 面白いことを……参りましたね、ますます殺してあげたくなりましたよ」
「……そんなだから見てももらえないのよ」
そして私は、『水月の双剣メダリオ』と名乗った男と戦っていた。

エターナルは、3人同時に現れた。
一番最初に察知したトキミが散開を命じた途端、雪原の中にジャンプしてきた3人。
それぞれが放つ冷気と熱に大気中の温度差がまるでテリトリーを持つかのように分断される。
彼らが創り出したフィールドは、私達を綺麗に1対1の状況へと持ち込んだ。
集団による戦法など、元々必要がないエターナル同士の戦い。
おおよそ予想は出来ていたが、相手の力量が判らない以上、不安要素はまだ残る。
メダリオという男の操る力の属性は、文字通り水のような気配がした。
数合交えただけだが、その剣技は速さも質も今まで会った敵の群を抜いている。
恐らくあの、ミュラー・セフィスでさえ打ち克つのは至難の業なのではないか。

「ああ、いいですねぇ貴女。ほら、剣がこんなに震えている。嬉しいんでしょう――――僕と一緒でっ!!!」
「……変態。――――!!!」
しかし、彼には一目で見て取れる性格上の欠陥があった。
こんな軽々しい挑発に易々と乗り、私程度のまだ“生まれたばかり”のエターナルに容易く本気を出してしまう。
しかもどこかにまだある余裕が枷になっているのか、どこか隙のある驕りまで見せて。
「っっ気に入らないな……その澄ました顔が、気に入らないよっ!!」
「マナよ疾く進め、破壊となりて、彼の者どもを包め――――」
「――あ?」
私には、一つの確信があった。
ラキオスの、ブルースピリットを識別出来る戦闘服。蒼い髪、蒼い瞳。蒼を基調にした刀身の色。
この世界に来てスピリットをある程度識っているエターナルなら。ましてや、自らの属性がそれに近いなら尚更。
「――――イグニッションッッ!!」

私の攻撃は水の妖精の加護を受けた攻撃に限定される(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)と、勘違いしてしまうだろう、と。

「グッッッ! これは……」
反射的に身を逸らし、『熱病』から迸り出た熱線をぎりぎりの所で避わすメダリオ。
その男の懐に一気に滑り込み、剣を持たない右手に力を収束させる。
「こ、このッ!」
ひゅん、と鼻先を双剣の一本が掠める。バランスを崩した所からの一閃は、流石に前髪を一房持って行った。
間近に迫った濁った瞳に余裕の色が失われつつある。いくら剣技を極めても、いやそれだからこそ失われた間合いは痛い。
油断していたとはいえ、屈辱も混じっているのだろう。私は鼻だけで薄く笑って返した。
「マナよ我に従え、彼の者を包み、深き淵に沈めよ……エーテルシンクッ!!」

「お、お前……チイィッ」
無理な体勢から剣を振るったメダリオは、窮屈な体勢から膝を畳んでそこに防御魔法を展開した。
咄嗟の判断は立派だが、炎と氷の連続攻撃に翻弄され、混乱した心の動きが手に取るように解る。
捻った反動で繰り出してきたもう一本の剣が舞い上がった後髪を軽く掠めるのと同時に、
私はメダリオが創ったばかりのシールドごと、彼の脇腹を思いっきり神剣魔法で“殴り”つけた。
「ゴフッ、ガアアッ!」
「おあいにく様……タアァァァッ!!」
それは、先程“澄ました顔”などと言われてしまったことに対する返礼。
ビビッ、と鮮血が空気中に拡散する。変な方向に捻じ曲がった右足とめり込んだあばらに、苦悶の悲鳴を上げるメダリオ。
その喉元が、ぐっと仰け反る。そこに狙いを付け、『熱病』を振り切った。

――――どん、という鈍い音と共にメダリオの頭部は何も無い中空へ舞い、そして雪原の合間へと吸い込まれていった。


「怪我はありませんか、セリア」
側に、いつの間に戦いを終えたのか、にこにこ顔のトキミが立っていた。
その悠然とした態度や様子に、戦った後の者という材料が見当たらない。流石、と内心舌を巻く。
「そうね、髪を少し痛めつけられた。何となく悔しいわ……相手が男だったからかしら」
「……? ふふっ。エターナル同士の戦いで、そんな感想を言うのは貴女が多分初めてですよ」
「そう? そんなものかな……」
言いながら、悠人を探す。――――探すまでも無かった。なにせ、物凄い勢いでこちらへ駆けて来るから。
「大丈夫か、セリア!!」
「きゃっ! ちょ、ちょっと……悠人?」
いきなり抱き締められ、顔を覗き込まれてしまう。見ると、彼は煤だらけだった。ントゥシトラに苦戦したのだろう。
彼の方が、明らかに怪我が多い。それなのに、逆に物凄く心配そうに見つめられ、困ってしまう。

「あらあら悠人さんったら真昼間から」
戸惑っていると、隣でくすくすとトキミの笑い声。
それにも悠人は気にしている風が無い。一心不乱に私の瞳だけを見つめてくる。頬が熱くなってくるのが判った。
「大丈夫か? 怪我は無いか?」
「え、ええ……」
かなり、いや非常に照れくさい。どう答えたら安心してくれるのか、そればっかりを考えていた。
抱き上げられたまま、そっと髪を撫でてみる。ごわごわと、硬い髪の毛に安心出来た。……私が安心してどうするの。
笑っていたトキミが私のそんな表情の動きを見て、急に深刻な声で呟いた。嫌な予感がした。
「悠人さん、セリアはとても大事なものを傷つけられてしまったようです」
「え、ちょ、ちょっと」
「何っ! 時深、どういうことだっ!」
「女の娘ですから……そうですねぇ、相手は殿方でしたし、それはもうショックを受け」
「なんだよっ! 一体何を!」
「トキミッッ!!」
際限なく続きそうなトキミの悪戯っぽい表情に、私は堪らず大声で叫んでいた。
そして、心の隅でちらっと驚く。「女の娘」、などという言葉をこんなに素直に受け入れているなんて、と。


山並みに陽の輪郭が顔を覗かせる頃、私達は“はじまりの地”、キハノレの城内部へと踏み込んでいた。
こつこつと、硬質な響きが反響する。周囲がいつの間にか、見た事の無い異質な構造物へと変化していく。
奥から感じられる圧倒的な、それでいて優しい気配。――――『再生』。幼い頃から、いつか還ると聞かされてきた場所。
幾何学的な文様が彫られている壁と天井は、どう見てもこの世界の文明が創ったものとは思えない。
正に、隔絶された異界。上下の感覚までがおかしい。悠人も同じらしく、しきりに辺りを見回している。

「…………」
そっと隣に近づき、空いている手を取った。こんな時にかなり思い切った行動だったけど、そうしたかった。
高鳴る胸を抑え、探るように肩一つ高い横顔を見上げてみる。――――気づいていないのか、相変わらず周りを眺めていた。
「痛てっ!!」
「? どうかしましたか、悠人さん」
「い、いや何も……おい、なんだよセリア」
「――――フンッ!」
思いっきり足を踏んでやった。……手は離さなかったけど。

相変わらず先頭を歩いていたトキミの歩みがぴたり、と止まった。その先に、大きな扉が立ち塞がっている。
振り向いた表情に、変化はない。ただ、気配の緊張だけは高まっていた。
「悠人さん、セリア、着きました。この先に……居ます」
「ああ、俺にも判る。ヤツだ」
「……“ヤツ”?」
隣に立つ悠人の横顔に、思わず問いかける。私の視線に気がついたのか、彼はゆっくりと頷いた。
「……ああ、『黒き刃のタキオス』。以前、砂漠で逢った事があるんだ。その時は、多分見逃されたんだと思う」
ぶるっと身震いするような形で『聖賢』を握り締めている悠人。砂漠。何があったというのだろうか。
扉の向こうに先程から感じる、堪えるような分厚く重い殺気。じっと息を顰めて待ち構える肉食獣の気配。
通り名を聞いたせいだろうか、黒い霧のようなものが壁から滲み出てきて全身に恐怖の感情を刷り込ませようとしている。
明らかに、数刻前に遭遇したエターナルとは存在感が異なっていた。とても第三位とは思えない。
「! 待っ……」
独りで歩き出そうとした悠人に声をかけようとして、はっと思い留まった。
扉の向こうへと吸い込まれていく背中に、聞こえたような気がしたから。――――“俺だけで戦わせてくれ”、と。

りぃぃぃぃん…………

『熱病』が、手元で細かく震える。
ぽん、と肩を叩かれ、顔を上げるとトキミの慰めるような、寂しそうな笑顔。
「少々計算とは違いますが……セリアにしては、よく我慢しましたね」
「……しかたないじゃない。悠人が、“そうしたい”って言ってるんだから」
「そう、“言ってる”、ですか……しかたがありませんね。悠人さんも男の人ですし」
「? 男の人? 当たり前じゃない」
「そういう意味ではないのですが……セリア、解らないで見送ったのですか」
「……む。じゃあどういう意味かしら。トキミには解ってるというのね?」
「さあ。でも、止められないという意味ではセリアと一緒ですよ。セリアほど可愛くはありませんけど」
「~~な! か、からかってるの?」
「ふふ、さあ私達も行きましょうか。『法皇』が待ちくたびれていますし」
「……ちょっと待って」
「え?」
「“セリアにしては”ってどういう意味かしら?」
「……憶えてましたか」
「誤魔化そうとしても無駄よ」
「…………」
「…………」
「……プッ」
「ふふ、ふふふっ!」
私達はひとしきりにらみ合った後、互いに噴き出した。
この先に訪れようとしている不安を吹き飛ばそうとするかのように。


『法皇の間』―――― 法皇テムオリンが待ち構える敵の拠点。

「思ったよりも時間がかかってしまいましたね……ふふふ、待ちくたびれてしまいましたわ」
彼女は、部屋の中央で笑いながら“浮いて”いた。

「あれが……第二位」
思わず、呟いていた。『無我』の、殺気とも違う。静かに佇み、それでいて目が離せない存在感。
テムオリンの、一見幼さを見せる容姿がより危険な匂いを醸し出す。
上品な口調に宿る狂気にも似た感情が、何故か神経を苛立たせていた。

トキミが警戒しつつ、ゆっくりと話しかけている。
「久し振りですね、テムオリン。今度は何周期ぶりでしょうか?」
「あら、周期で語ってはお終いですが……わたくしもいい加減飽きてきましたわ、トキミさん」
「お互いさまでしょう? そろそろ決着を着けたいところですが……」
「無駄でしょう。ここで戦っても、どちらかが一度この世界を駆逐されるだけ。でも……退屈凌ぎには丁度宜しいのかも」
「それではその退屈凌ぎのお相手とやらを、お願いしてもいいのですね?」
「どうしましょう……どちらかといえば、そちらの“生まれたて”を可愛がってあげたいんですのわたくし。ふふふ……」
「……そうやって若い娘を見ては変な舌なめずりなんかしてるから歳がバレちゃうのよ」
「――――いいでしょう。たった今、まずは小うるさい年増を叩き潰す事に決めました。覚悟なさい」

一瞬嘗め回すように全身を観察された時は鳥肌が立ったが、どうやらトキミの挑発に乗ったらしい。
ゆっくりと手に持つ錫杖のような永遠神剣第二位『秩序』を振りかざす。
彼女の周囲に無数の神剣が輪を描いて浮かび上がった。辺りの空気がゆっくりと渦をなし、流れ出す。
「よもやこの攻撃だけで終わりなどとのつまらない決着では承知しませんわよ――――“時詠みのトキミ”」
「ふん、見飽きた構えですね、“法皇テムオリン”――――あなたが塵となった姿が見えます」
同時にトキミが懐から取り出した、一枚の紙。人型のそれがみるみる増殖し、鋭い刃となって風を切る。
二人の間にマナが密度濃く収縮しつつあった。見計らい、そっと後方に下がる。
巻き込まれるのを避ける為と判断したのか、テムオリンは気づいていながら何もしてこない。

立ち去り際、トキミが小さく呟いてきた。
「セリア、この半月……有意義に過ごせましたか?」
「……ええ、心配ご無用。無駄にはしません……いえ、させない」
「そう、安心しました。ふふ、なんなら替わってあげてもいいのですが」
「結構よ。トキミこそ、“門”は閉じるんだからね?」
「努力しましょう。……『世界』の気配は判りますか?」
「嫌という程。『熱病』が教えてくれるわ」
「……では、また“後”で」
「マナの導きのあらんことを!」
法皇の間を踏み出し、駆け出したところで、後ろから割れんばかりの振動が伝わってきた。
振り返らず、駆け続ける。『再生の間』は目前だった。


ゴオン……ゴオン……

赤く輝く空間。その中央に、白く眩しく貫く光柱。そこに、男は佇んでいた。
禍々しい異形の翼を広げ、歪んだ笑みを赤い瞳に浮かべて。手に持つ、というよりは一体化してしまっている神剣。
部屋の膨大なマナを喰い散らかし、まだ膨れ上がりつつある力。永遠神剣第二位、『世界』。
サーギオスで見た時とは比べ物にならない程“飲まれてしまったモノ”の末路がそこにあった。
中央に沈みつつある『再生』の様子を窺う。『再生』は彼を仲介して、この世界そのものを吸い込もうとしていた。
イースペリアで嫌というほど感じた悲鳴のような軋みがあの時の想いを呼び起こす。

 ――――戦後の世界……それが私の生きる道、だから……

もう、絶対に繰り返してはならない。未来を創りだそうとしている少女達の為にも。


「……なんだ、妖精が一匹紛れ込んだか」
一瞬逸れた考えの隙間から、低く重い声が入り込む。
顔を上げると、シュンが“今気がついた”というような表情でこちらを見ていた。

瞳に、なんの感情も浮かべてはいない。ただ、なにか異物に対する不快感のようなものだけが僅かに見て取れる。
明らかに敵な私に対して、神剣の力を解放しようともしない。ただ、スピリットだとは認識しているようだ。
纏った鱗のような甲冑がぎしぎしと不協和音を奏でている。
それが部屋で唸りを上げている何かの駆動音と合わさって不快だった。
じっとしていると神経が磨り減るような音に耐え切れず、口を開く。
「初めまして、というべきかしら、『世界』。見事に“人”を取り込んだものね」
「……ふむ、生きていたか。だが、それもどうでもよい事……『再生』は間もなく陥ちる」
ぶわっ、と周辺の空気が陽炎のように歪んだ気がした。私の顔を憶えているとは思えない。
少なくとも、「シュン」が憶えている筈はない。一体何と間違えて――――そこまで考えて、思い当たる事があった。
手元の『熱病』に軽く力を籠めてみる。マナの豊富な空間で、剣はそれだけで眩しく光り輝いた。
「……む。――――何者だ」
「そう……そういう、事」
私は、知らず口の端に小さく笑みを浮かべていた。目の前の敵は、私が誰なのかも認識してはいない。
サーギオスですれ違っただけの存在なのだから、当たり前といえばそうなのだが、違う。
明らかに、誤解している。私を、トキミと。――――ただ、手元から流れる『時詠』の気配だけで。
“人”ならば、姿形をまず認識する。スピリットのそれと見誤るなどは有り得ない。
それをしないということ……つまり『世界』はそこまで彼の意識を取り込んでしまっている。
混ざり合った『永遠』と、恐らく雑音程度の『熱病』の気配、それだけに戸惑っているのが証拠だ。

「――――不愉快だ。消えろ、“僕”の前から」
ならば、戦いようがある。そう考えた時、シュンがふいに動き始めた。ゆっくりと『世界』を肩にかける。
すると唐突に、彼の周囲で発生し、急速に回転し始める魔法陣。そこに赤黒いマナが集まっていく。
私はまず手前の足場を飛び、ウイングハイロゥを展開して間合いを詰めた。
「遅すぎて話にならん……ハアァアァアッッ!!」
「!!」
ズンッ。浮いている、六角形の結晶体のような足場。踏み込もうとしたそれが、鈍い音を立てて歪んだ。

「……クッ!」
「ははははははははははははッッ!!! オーラフォトンブレイクゥゥゥッッ!!!」
咄嗟に爪先だけで跳ね上がる。
確認すると、地面からせり上がってくる幾筋もの不規則なうねり――蛇のようなマナの塊。
それはまるでそれぞれが意志を持ったかのように、私一人だけを目指して殺到してくる。
「ッッハァッ!」
瞬間、剣先に氷の付加魔法を唱え、振り切った。“スピリット”としての私の最大の技、ヘヴンズスウォード。
開いた攻撃姿勢が一瞬の隙を生むが、それでも懐に入った「蛇」から順に熱を奪いつくして崩壊させてゆく。
びしびしっと亀裂を走らせ、次々に砕け散る赤い塊。蹴飛ばしつつハイロゥを捻ってシュンとの差を更に縮めようとする。
ちらっと窺うと、彼の顔にはまだ余裕の表情が浮かんでいた。もう一段駆け上がり、後ろを振り返る。
同時に、すぐそこまで追いかけていた魔法陣が大きく膨れ上がって弾け飛んだ。
爆風と細かい刃が四方から一斉に襲い掛かってくる。ダメージを受けている様子が無い。
私は小さく舌打ちをした。どうやら出し惜しみをしている余裕はないようだった。
「ッ! 精霊光の一撃をここにっ! 光となって、永遠とひとつに!」
唱える、初めての詠唱。
ギュン、と白金に輝いた『熱病』の先で、空間が捻じ曲がる。そこに“捲れた”マナを、振り切りざま無理矢理注ぎ込んだ。
巻き込まれかねない“捻れ”に身体中が悲鳴を上げる。まだ『永遠』の力を完全には引き出せない私にとって、未完成な技。
その威力が、シュンの魔法陣とぶつかり合って周囲が閃光に包まれる。ぎりっ、と奥歯を噛んで耐えた。
「エタニティリムーバァァァァァ!!」

「ハアッ! ハァッ……」
ようやく自分で開いた空間を“閉じ合わせた”私は、がっくりと膝をついていた。
予想していたとはいえ、消耗が激しい。いや、激しいなんてものじゃない。全身が軋んでばらばらになる寸前だ。
一方、オーラフォトンブレイクという技を封じられたシュンは、驚きを隠せないようで、何かを呟いている。
「馬鹿な……凌いだだと? その力……まあいい……相手をしてやる!」
しかし、息をつく暇など与えられない。すぐに気を取り直したシュン本人が、今度こそ迫ってくる。
彼は、一度肩から下ろした『世界』をもう一度屈みながら水平に構え、そのまま突進してきた。
空中を飛びはしないものの、踏み込んだ足場が次々と粉々になっているところを見ると、『世界』の威力が加速している。
「集えマナよ…… 僕に従い、敵を爆炎で包み込め!」
「まったく、せっかちね……マナの力もて時を歪めよ、一時の間、我らに予見の目を……」
是も非も無い。憎まれ口が突いて出たが、どうせ聞こえてもいないだろう。――――まだ、繋げられるだろうか。
半信半疑のまま、『熱病』を折り畳んだ腕の中に引き込む。
錆付いたままの膝に力を篭め、伸び上がるような姿勢で私はまたもや馴れない技を繰り出していた。
耳元で炸裂する、爆風。歪んだ風圧が、私達を中心に放射状に押し広げられて辺りを軒並み薙ぎ倒していく。
「タイム、コンポーズ!!」
「オーラフォトン、レェェイッッ!!!」

ほんの僅か、それこそ刹那。私の詠唱の方が、速かった。
タイミングを見計らった訳ではない。偶然、彼の方から間合いを詰めた、その一瞬。
『時詠』の力を放って敵の動きの隙を突いた『熱病』の切先は、貫くには不適切な形状を法則ごと“捻じ曲げ”、
シュンの防御が一番弱い部分、すなわち鱗の無い胸の中央へと深々と吸い込まれていった。

 ――――――だけど、もちろん私だって、無傷では済まない

「グッ、くお……ガフッ」
「あ、ああ……」
目の前で、苦悶に歪むシュンの顔。吐き出した血飛沫が乾いた霧のようにマナへと代わり、私のそれと交わる。
ぼんやりと、それを眺めていた。身体の中心が、焼けるように痛い。ずるり、と生臭い音。
「お、お前……まさか、最初から……」
「ふ、ふふ……今、更、気づいた……?」
仰け反りそうになる体勢を必死な様子で耐えながら、よろよろと後退していくシュン。
同時に、彼の剣に支えられていた格好の私の膝からも、急速に力が抜けていく。
ずるずると二人の間に伸びていく、二本の血塗れの剣。『熱病』と……『世界』。
交錯する刀身がキン、と偶然一度軽く擦れ、それが合図だったかのように『世界』は私の“胸”から完全に抜け落ちた。

ぺたん、と尻餅をついてしまう。まだ両手で握り締めていた『熱病』の刀身をぼんやりと見つめた。
余韻が残っているのか、金色のマナに包まれたそれが淡く赤く『再生』の色を反射している。
その先で、どすん、と重い音。顔を上げると、シュンも同じように座り込んでいた。
がっくりと項垂れて、髪に隠れた表情が見えない。しかしもう、『世界』の気配は残ってはいなかった。
「まさか、妖精にやられる、なんてな……“僕”とした、こと、が」
俯いたまま、ぼそぼそと呟く。もう答える気力など殆ど残ってはいなかったけど、それには何となく言い返したくなった。
「妖精とか……言わないで。そんなの……関係、ないわよ」
ビシッ、と二本の神剣から、同時に嫌な音が聞こえてくる。それは、主が回復不能な証明。
高揚した胸の鼓動が、皮肉にもどくどくと命を吐き出していく。もう、痛みも感じなかった。
「“人”とか、スピリット、とか……くだら、ない……誰、だって、守りたい、んだから……」

ゴオン……ゴオン……

暫く、沈黙が続いた。
『再生』の周囲で響く、地鳴りのような音だけが耳の奥に響く。
それがとても、遠く思えた。まだスピリットだった時に聞けば、もう少し近くに感じられたのだろうか。
「ふ……くはは……関係、ない、か……」
微かに零れる笑い声に、現実に引き戻された。まだ生きていたのかと、そちらを窺う。
シュンは、顔を上げていた。瞳には、もう狂気の色は無い。そこにいるのは、ただの“人”だった。
どこか寂しげな、透明な顔の白さがやけに印象に残るような。まるで憑き物が落ちたような表情に、息を飲む。
「……それ、悠人の、受け売り……だろ?」
悪戯っぽい、吹っ切れた笑顔。そこに、悠人と何故か同じものを感じる。だから、笑って答えた。
「違うわ。もっと……大事な人の、言葉、よ」
「……チッ。どこ、までも……嫌な、ヤツだ……まぁ、いい」
そうして一度深くて長い息をつき――――彼は、動かなくなった。


シュンの身体が金色に淡く弾けるのを見届けた後、私は支えきれなくなった上半身をどさ、と床に横たえた。
天井ともつかない白い空間に、沈み行く『再生』だけが見える。
手に握った『熱病』が小さく鳴っていたので、ぎゅっと握って応えた。もう、そちらを見る気力も無い。
「これが……死、かぁ……」
冷たく、石になっていくような感覚。どこか、引っ張られるような喪失感。
リアも、これを味わったのだろうか。こんな嫌な、独りぼっちをただ黙って受け入れるしかない感覚を。

  ≪セリアァァァッッ!!≫

遠くで、声が聞こえてくる。大好きな、たった一人望んだ人の声。
周囲が金色に光る中、もう良く見えない視界の向こうに姿まで見えたような気がした。
「無事、だったの……よかった……」
そうして私は意識を失う直前に、ようやく理解する。リアが最後に残した涙の意味を。
あれは、微笑みと共に見せた涙だったのだ。敵など、関係なく。ましてや、“人”とか“スピリット”とかではなく。
ただ、守れた事への悦びから。リアは、純粋に喜んでくれていたのだ。

  ―――― 私は、想いの受け取り方を、間違えていた ――――

そうでなければ、こんなに自然に笑みは零れてこない。こんな時、悠人にこんな風に、笑いかけてはいない――――