相生

Delphinium×belladonna Ⅰ

「――――ク、ァッ!」
「ほらほら、いっくよ~!」
既に手負いで懸命に逃げるブラックスピリットの背を追いかけながら、ネリーは興奮していた。
枝が撓った反動を利用して飛び跳ねる身体が異様に軽い。全身から漲るような力がこみ上げてくる。
振り回している『静寂』が羽根のように感じた。彼女は、今なら思い通りのマナが操れると思い込んでしまっている。
「逃がさないんだからぁ! いっくよっっ!!」
右手の白い球体が収束するのを待つのももどかしく、中途半端な状態で打ち出す。
放たれた未完成なエーテルシンクは的確に敵の片翼と肩を削ったが、充分な威力ではない。
多少バランスを崩したものの、逃げる速度が落ちる程の攻撃でも無かった。
それでも、傷だけは増える。先程からの執拗で嬲るようなネリーの反復攻撃に、
ブラックスピリットの全身は見るも無残なほどいたる所に無数の傷跡を斬り刻まれ続けていた。
「外さないっ! 喰らえ~~!!」
「ハァハァ……ガァッ!!」
そして、また一撃。『静寂』で背中を縦に割られ、仰け反った顎からくぐもった悲鳴が漏れる。
またしても、憐れなブラックスピリットの少女は“死ねなかった”。
ただ苦痛だけが与えられ、身体中からマナが抜け落ちていくのを感じる。

少女は、考えていた。
何故自分はこんなにも憎しみをぶつけられ続けているのかと。
まだ苦痛が続くのなら、いっその事もう一思いに致命傷を与えてくれはしないかと。
勝負は、既についてしまっている。ただ、追いかけられているから逃げていた。
その先には希望など何もなく、目の前に展開する景色だけがこれから迎える絶望を暗示しているかのようにどんどんと霞んでいく。
なのに、呼び覚ますように襲い掛かる激痛が気絶することさえ許してはくれない。
「――――これで、決める! ハァァァアアァッッ!!」

 ――――ズンッ!

「ッ!!! ……ァ」
背後から鈍い衝撃を感じ、胸から突き出た『静寂』を視界の隅に収めた時、
混濁した意識の中で少女はむしろ笑みさえ浮かべていた。これで楽になれる、と。
「……ふう。シアーをいぢめるからこういう目にあうんだよ!」
枝の隙間を落下しながら金色に変化していく敵の少女を足元に見下ろしながら、
ネリーは『静寂』に吸い込まれていくマナに向かって吐き出すように叫んでいた。
ふわさぁと長い蒼色の後ろ髪が舞い、纏った重い水蒸気が大気に反射して煌く。
高揚したままのネリーに呼応して、『静寂』の響かせる共振音もいつもよりもやや高い。

最初は、複数の敵に囲まれたシアーを救出しようと無我夢中で剣を振り回していた。
しかし一人また一人と倒した敵から吸い込んだマナが、『静寂』とネリーとのバランスを崩していく。
少しずつ、囚われ始めるマナへの衝動。その快感に逆らう意味を、ネリーは深く考えなかった。
そうして半分神剣の意志に飲み込まれたまま、ネリーは今や得意げに樹の上で仁王立ちになっている。
「……む?」
Sappheiros(サファイア)を想起させる紺碧の双眸は、一つの影を捉えた。
しかし対象をスピリットと判断するよりも速く、その影は疾風に流れるような動きで樹々の間を縫うように背後に回り、
一瞬にしてネリーを背中から羽交い絞めにしてしまう。
「クッ……こ、このぉ~!!!」
「ネリーさん! 落ち着いて下さい、私ですよぅ!」
尚も暴れるネリーを取り押さえようとしているのは、ようやく追いついてきたヘリオンだった。