なにやら騒がしい周囲の気配に目を覚ましたシアーは自分がうつ伏せになっている事に気が付いた。
湿った落ち葉が頬にくっついてしまっている。ひんやりと蒸せた土の匂いが少し心地いい。
上半身だけ起こしてみると、しかしどうやら残念ながら、全身は泥だらけになってしまっているようだった。
「……やぁん」
今現在置かれている状況を一切無視したいとでも言いたげな、心底嫌そうな声が漏れる。
脳裏には敵の姿ではなく、泥だらけにした服を目の前に呆れたような哀しそうな表情を浮かべるハリオンがあった。
彼女はいつものんびりした笑顔を絶やす事がないが、背中に背負う気配を微妙に変える事によって感情を表す。
そしてそういう雰囲気に殊更敏感なシアーは、ハリオンが機嫌を損ねた時の恐ろしさもまた他の仲間より良く知っていた。
もし一たび勝手に戦闘に出て、その上余計な洗濯物を増やしてしまったなどと知られてしまえば。
「ん~、どうなるんでしょうかねぇ~」
「――――ひぃっ?!」
気のせいか妙に迫力のある間延びした声まで再現されてしまい、シアーは思わず想像上のハリオン相手に座りなおし、背筋を伸ばす。
「あのね、あの……そのね」
「ん~~~?」
幻覚のハリオンは弁解しようとするシアーにも相変わらずの優しい笑みのままで首を傾げてくる。
それも、醸し出す癒しの空気や、それが曖昧に鋭くなっていく所までが本物そっくりの迫力で。
シアーはたまりかね、素直に謝る事にする。
「ご、ごめんなさい……え? あれ?」
「はい、良く出来ました~」
「え、え、えええ~?!」
下げた頭にふわりと感じる、優しく撫でてくれる暖かい手。幻覚でもなんでもなかった。本物のハリオンだった。
「素直に謝ってくださいましたからぁ、今回は、特別に許してあげますねぇ~」
覗き込むように屈んでにこにこと微笑みながら髪を撫で続けているハリオンに、シアーは口をぱくぱくさせて硬直するしかない。
「ま、無事だったから良かったけどね。今度こんな勝手な真似したら許さないわよ」
そして止めのように、また別の声がかけられる。
赤く短い髪を掻き上げながら『赤光』を杖代わりにして立っているのはヒミカだった。
そこでシアーの緊張は一気に緩み、心の底からの安心感が溢れ出し、
「! ヒミカぁ~! ふえぇぇぇ~」
「あらあら~?」
ハリオンの胸へと飛び込んでいた。
「それで? 他の子達はどうしたの?」
側の木に突き刺さっている『失望』に首を傾げつつ、んっ、と引っこ抜きながらヒミカが問いかけてくる。
だが、ようやく泣き止んだシアーは所有者であるヘリオンが何故そこに居ないのかすらも知ってはいなかった。
ネリーの気配を探ってみるとあまり離れてはいない所でどうやら無事でいるらしいが、それ以上の事は判らない。
しかしその程度の事はヒミカやハリオンには先刻承知していた状況だった。
まだ未熟でネリーの気配しかはっきりと捕捉出来ないシアーとは違い、とっくに全員の位置を把握してしまっている。
「そうじゃなくてね、あー、えっと」
「あのですねぇ、どうしてこんな無茶をしたのですかぁ~?」
二人が知りたいのは、こういった行動を起こしたその理由だった。
「え、それはその……えっと」
「ん~~~?」
「ひっ! ご、ごめんなさい、ごめんなさ~い……」
「ハリオン、威してどうするのよ」
「あらあらぁ? そんなつもりはなかったのですけどぉ~」
「貴女のは無意識な分性質が悪いわね……ほら、無駄に時間をかけるから」
「……来ちゃいましたね~」
「シアー、貴女は後ろに下がって。怖いなら神剣魔法でも唱えてなさい」
「え、え? あ、うんっ!」
不意にヒミカとハリオンは立ち上がり、草叢の一部を睨みつける。
朝霧も大分晴れたその木陰に敵の集団を見つけて驚いたシアーは勢い良く頷いた。
一度振り向いたヒミカが口元だけでにやっと小さく笑う。
「ほら、これも預かっておいて。どうも軽すぎて私には合わないみたい」
そう言って『失望』をシアーの方へと放り投げると、薙刀状の自分の神剣を風を切るように軽々と振るう。
隣に並んで立ったハリオンも巨大な『大樹』を肩にかけ、慌てて『失望』を受け取ったシアーににっこりと呟いた。
「やっぱり『赤光』さんの方が勇ましいヒミカにはぴったりですぅ~」
「余計なお世話よ。ハリオン、準備はいい? 敵は……」
「はいはい~。全部でモート(3人)、ブルースピリットにブラックスピリットが混じっていますねぇ」
軽く答え、頭上に輝くハイロゥリングをゆっくりと盾に変化させてゆく。
ヒミカの両脇でひゅんひゅんと唸りを上げていたスフィアハイロゥもあっという間に『赤光』に吸い込まれ、両刃の刀身が淡く緑色に輝き出す。
「すごい……」
二人の洗練された戦闘態勢への移行に、シアーは固唾を呑んだ。
訓練で何度も見ているはずだが、こうして実際戦地で見るのはまた違った印象を与える。
平穏な日常の中で目の当たりにしていた時には単に怯えにも似た感情しか持たなかったが、
赤と緑のマナが交じり合うその背中に、今は頼もしさだけを感じられた。そしてそれが凄く嬉しかった。