ヘリオンは広い屋内の片隅で膝を組んで壁に寄りかかり、抱え込んだ『失望』を器用に揺らしながら、
膝の上に立てた両手で頬杖をつきつつ目の前で繰り広げられている激しい戦いを熱心に見つめている。
「破壊となりて彼の者どもを――――クゥッ」
「ほら、まだ詠唱が間に合いませんぞ!」
充分距離を取りつつイグニッションを唱えようと『消沈』をかざしかけたナナルゥの動きは決して遅いものではない。
むしろレッドスピリットの特徴でもある赤く流れる前髪を巻き込むように発生したスフィアハイロゥが炎へと変わるのに、瞬き一つも間に合わない。
しかしそれでもたちまち間合いを詰めたウルカに『冥加』の剣先を鋭く突きつけられ、発動寸前でマナの流れ自体が寸断される。
そして遅れてやってきた旋風が二人の戦闘服を乱す暇もなく互いの影はたちまちすれ違い、きんという甲高い音と共に対角線上へと駆け抜ける。
再び向き合ったウルカの頬には軽い擦過傷、ナナルゥの戦闘服の肩口には鋭く切り裂かれた跡。
「凄い……これだけ真剣にぶつかってるのに」
住人が疎開した後無人になっていた大きな屋敷を接収して造られた臨時の訓練施設には他に人影が無い。
ヘリオンはごくりと喉を鳴らし、身を乗り出す。『失望』の鞘を握った手に思わず力が入るのが自覚出来る。
「これ、……強さって」
見とれている間にも戦いは加速していく。ウルカの踏み込みはおろか、姿を追うことも既に難しい。
時折煌く白刃の眩しさと間を置いて届く風切り音だけが、ヘリオンの首を左右に気忙しく動かしている。
そして驚嘆するべきは、その速度に当たり前のように合わせ、朱色の残像を残して距離を取ろうというナナルゥの動き。
「レッドスピリットなのに。……それ、なのに」
深い紫水晶のような瞳が次第に大きく揺れていく。ヘリオンは、少しづつ自分が小さく縮んでいくように感じていた。
元々小柄な身体をぎゅうっと両腕で抱え込むと、慰めるかのように『失望』が明滅して応える。
「私ってば、馬鹿です。ちょっと強くなった気でいて、それを試したいだなんて思って。……ごめんね『失望』。怖かった……ですよね」
今朝の戦闘で置き去りにした事を改めて謝り、鞘越しにそっと刀身を優しく撫でる。
しかし『失望』は大人しくヘリオンの腕の中に収まったまま、何も文句を返してきたりはしない。ただ黙って明滅を繰り返す。
「ふぅ……おや? いかがなされた、ヘリオン殿」
「え? あ……ウルカさん。ううん、なんでもありません」
「ふむ、そうですか。ですが手前には」
いつの間にか、手合わせは終了していたらしい。
ウルカは篭った熱を逃がそうと、髪を払う。銀色の合間に飛び散る水滴がきらきらと輝き、美しい。
褐色の肌に浮かんだ汗を手早くタオルで拭う姿が、先程までの訓練の激しさを思わせる。
「何か、迷われている。そう見受けられました」
「……あ、あの、ウルカさん」
「はい、なんでしょうか。手前に答えられる事でしたら」
「あ、その……えと、どうしたら……一体どうしたら、ウルカさんみたいに強くなれるんでしょうかっ」
「……ふむ、強くなりたいと。ではヘリオン殿、強さとは、一体なんなのでしょう?」
「ふぇっ?」
「己の未熟さというものはそれを自覚する所から始まる、そう思えます」
「……?」
「自覚して、そこから無に転ずる。心を捨て……いえ、剣に、心を乗せるのです」
「乗せる……心を?」
思い切って訊ねたものの、きびきびとした仕草にぼーっと見とれていたヘリオンは、一瞬何を言われたのか判らなくなり首を傾げる。
しかし頬の傷に濡れタオルを当てていたウルカは揺れたお下げを一度だけきょとんと見つめ、そして小さくふふっと微笑んでいた。
ヘリオンの目を覗き込みながら小さな肩に手を置く。それは、まるで壊れ物を扱うように慎重な、慈しむような手つきだった。
「申し訳ありませぬ、不覚にも、ヘリオン殿があの子等のように思えてしまいました故」
「え、え、あのそんな謝らないで下さい! 聞いてなかった私が悪いんですから!」
「また人の話を聞いてなかったのですか」
「わっ! ナナナナナルゥさんいつの間にっ!」
「? 先程からいましたが。何か問題でも?」
「……無いです、無いですけど」
急に背後から声をかけられ、飛び上がりつつ振り返ると同じく汗を拭っていたナナルゥと目が合う。
気のせいか口元に何か達成感でも得たかのような喜びが仄見えて、ヘリオンはがっくりと肩を落とした。
「はぁ、もういいです……あれ? あの子等って一体……ウルカさん?」
「ウルカなら、先程遠い目をしながら去りましたが」
「遠い目って……あのぅ、そういう表現は」
言いながら目で追いかけると、ウルカの背中は既に小さく、すぐに反対側の出口に見えなくなってしまう。
「……何だか、寂しそうです」
「何か言いましたか、ヘリオン」
「いいいえ! さ、ナナルゥさん、今度は私と訓練して下さい!」
「構いませんが」
慌ててナナルゥの背中を押しながら、ヘリオンは思い当たる。あの子等とは――――恐らく昔の仲間達の事なのだと。
屋外に出たウルカは眩しい日差しに目を細めながら手を翳し、空を仰ぐ。
静かに流れる雲を眺めていると、元気にはしゃぎ、懐いてくれていた翠の瞳、同じ色の長い髪が思い出され、自嘲気味な溜息が漏れた。
「すまぬ、みんな。今の手前はラキオスのスピリット……漆黒の名は捨てたのだから」
腰に下げた『冥加』に問いかける。剣が、『拘束』から『冥加』に変わった時。あの広い背中を全身で感じた時。
「剣の声。それが聞こえたのだから。手前はあの方の剣になる。そう、決めたのだから。……憎んでくれても構わない」
太陽が雲に隠れ、辺りは少し暗くなる。翳した手を下ろし、重くなった気分で前に振り向く。
「よ、ウルカ。どうした、何だか元気がないな」
「ユート殿……ふふ、何でもありませぬ」
再び歩き出したウルカの足取りは、少しだけ軽い物へと変わっていた。