相生

Lemma Ⅲ

ぎしっ、ぎしっ、と単調な音に軋む部屋のくすんだ天井。次第に収まっていくマナ灯の炎の揺らめき。
「はあっ……はあっ」
男は乱れ切ってしまった呼吸を何とか収めようと口元に垂れた涎とも血液ともつかない液体をぐいっと乱暴に拳で拭う。
目の前には、ようやく大人しくなった少女が、ずだずだになってしまった戦闘服の四肢をだらしなくベッドの上に投げ出し、
仰向けの姿勢で首だけをかくん、とこちらに向けている。
しかし切れた半開きの唇から滴る血や、目尻から涙を零したまま色を失った瞳は彼女が完全に気絶している事を物語っていた。
「く……中々、手こずらせてくれたものです」
男はそれらを確認してから、ようやく冷たい床に尻餅をついたままの重い腰をのろのろと持ち上げ始める。
そうしてベッドの上に散らばっている緑色の美しい髪を冷たく見下ろしている内に、次第に冷静な思考も蘇ってきた。
未だ激しく波打っている胸の動悸を抑える為に、今更疲労で強張ってきた腕を何とか持ち上げる。
部屋はもはや原型を留めない位に破壊されつくしていて、目も当てられない。惨況に、呆れた深い溜息が漏れる。
「ふぅー……全く、まさかこれ程の抵抗を受けるとは。これではますます嬲ぶり甲斐もあるというものですが……ふむ」
男は、不快だった。がらん、と手にした仕込み杖を乱暴に床へと投げつける。
妖精が人間に歯向かう、その一事だけでも我慢がならない。ましてや錯乱し、襲い掛かってくるなどは想定外の恐怖だった。
少女の前に躾けたブラックスピリットまでもがその時の衝撃の余波を受け、部屋の隅に吹き飛ばされ、金色に霞んでしまっている。
単独で組み伏せられたのは奇跡と言ってもいいだろう。一応武術の心得があったとはいえ、夢中で反撃した際に接触した指はまだ動かない。
少女の目を覚まさせないようベッドの端に慎重に腰を下ろし、美しいその横顔を眺める。

「このまま絶望と力を与えてしまうのは容易いのですが、しかしこれは……」
そっと髪を掬ってみると、滑らかなそれはすぐにさらさらと指の隙間から零れ落ちる。やはり幻などでは無いらしい。
男は黙ってそれを何度か繰り返し、それから視線をゆっくりと少女の神剣に戻す。
気絶しているにもかかわらず、少女はしっかりとそれを握ったままだった。焼ききれた神経がそうさせたのか、判らない。
ただ、今までに確認された事の無い現象なのは間違いない。この際これが偶然の産物だろうがそんな事は男にとってはどうでも良い。
もう一度立ち上がり、見下ろす。鮮やかなエメラルドグリーンに輝いていた槍型の神剣は、今は主の心に忠実に、静かに光芒を失いつつある。

    ―――― いつの間にか、細身の剣状へとその姿を変えて。

「ククク……宜しい。見せてもらうとしましょうか。妖精の分際で、どこまでその"心"とやらを保っていられるのかを、ね」
ふと脳裏に閃くのは、放逐した元・サーギオス最強の妖精。その漆黒の翼を思い出しながら、男は緩慢な動きで部屋の扉を開ける。
配下のグリーンスピリットを呼ぶつもりだった。取りあえず、この少女を回復させなければならない。
自分に恐怖を与えたという、その分不相応な行為の報いを受けて貰うために。
「思い出しなさい。自分が愚劣な、忌々しいただの道具に過ぎないと」
扉を閉める微妙な空気の流れに、争いの最中も灯り続けたマナの炎はあっけなく吹き消される。
後に残されるのは暗闇に沈んだ荒れ果てた部屋、その中で仄かに浮かぶ金色のマナ。
そしてぎしっ、ぎしっ、としつこく続く、歪んでしまった天井の悲鳴だけだった。