相生

臨時の仮設会議所を後にした悠人は丁度入れ違いに入室してきたヒミカとすれ違いに軽く挨拶を交わし、
足早に廊下を横切ると屋外へ出る為ドアノブに手をかけた。
「……おっと」
すると手首に力を入れようとした所でその扉が外側からゆっくりと開き始め、咄嗟に衝突しかけた上半身を逸らし、2、3歩後ろに下がる。
扉の向こうには、女性が静かに佇んでいた。
珍しく驚いているのか特徴的な赤い瞳が微かに揺れ、紫檀の肩掛けから伸ばした手も動きが止まったまま引っ込めようともしていない。
「……あれ? イオ?」
「お久しぶりです、ユート様。相変わらず、ですね」
悠人が初めて彼女と出会った時には表情が乏しくただ冷たいばかりの印象を感じたものだったが、
サウナでの一件以来彼女なりに打ち解けようと努力をしているのか、最近では少しづつ感情の起伏も見せるようになってきている。
今も驚きが醒めると同時にホワイトスピリットの証でもあるプラチナの長い髪を軽く揺らしてぺこりと丁寧なお辞儀をしたかと思うと、
からかうような口調で目元に悪戯っぽい微笑みを浮かべながら顔を上げ、小首を傾げていた。
その拍子に柔らかく風に嬲られ傾ぐ帽子の動きは本当に僅かで、感情の変化もヨーティアと悠人以外にはまだ見極めがつかない。
しかし見上げてくる目線は意外と幼く、彼女一流の皮肉をどこか憎めないものに変えてしまい、つい悠人も頬が緩んでしまう。
「ああ、相変わらずだ。イオも元気そうでなにより」
「ありがとうございます。ところで、何かに慌てていらっしゃったご様子でしたが」
「あ、そうだ。まいったな、レスティーナに神剣通話で連絡が取りたかったんだけど」
「……そうなのですか。それは、申し訳ありません」
「ああいいんだ、そっちは他の手を考えるから。それより、どうしたんだ? イオも何か用事があったんだろ?」
「ええ。ですが、もうその用事もどうやら済んだようです。女王陛下の親書ならここに」
「え?」
「内容は、元稲妻部隊クォーリンの配属に関してです。恐らくは以前からコウイン様が活動されていた御奏上を受け入れられたものかと」
「……」
悠人は、無言でその封書を開く。その間も、親友の手回しの良さに呆れて物が言えない。

悠人に親書を渡すという使命を無事果たしたイオは夜も更けてから、何となく足を城の裏手へと向けている。
そのままラキオスへと帰還する為にエーテルジャンプ施設へ赴いても良いのだが、珍しく携帯している『理想』がそれを許さない。
それに、本来の意味では無いが、彼女にとっては“自分に対しての大切な任”もある。
「……そうですね。仲間を失う、それは、酷く悲しい事なのでしょう」
一人、呟きながら何事かを納得する。
記憶を封印されているイオには、遥かな昔それを恐れる余り多くの仲間を結果的には失ってしまったという彼女自身の経歴を思い出す術は無い。
しかし最近になってどういう訳か、普段は殆ど沈黙している『理想』の感情に揺り動かされ、心の奥でざわめくものがある。
「……なるほど。貴女、でしたか」
そうして導かれるまま辿り着いた、影が深く差し込むじめじめとした廃墟の奥で。
「uuuuuuu――――」
「ネリー……『静寂』の主」
イオは、見つけた。まるでさざ波が大きなうねりになる直前のように獰猛な気配を。
爛々と逆巻く蒼い瞳を灯らせたまま蹲っているブルースピリットを。
自己の内で本人の意志に関係なく暴れ回る衝動を、今にも溢れ返りそうになっている心細い堰を。
このような暗がりでたった一人、それこそいつも共にいる『孤独』の主にも迷惑がかける事を恐れ。
まだ残る何かに懸命にしがみつき、華奢な腕で必死に自身を支えている存在を。

「ここまでとは。宜しいですね、『理想』……覚悟を」
ひらりと、その場の重苦しい空気とはおおよそ不似合いな軽い音を立て、両肩の紫が翻る。
イオは重心をぐっと下げ、心持ち自分に引き付けるような形で『理想』を構えた。戦闘など、久しぶりである。ましてや相手は現在の仲間。
自分のスピリットとしての能力が制限されているとは、イオは知らない。しかし剣術の腕だけは何故か大陸の訓練士でも敵う者は少ない。
そうしてイオは今まで、ヨーティアの側にあってその命を何度も救ってきた。神剣の位や力ではなく、機略と技量をもって。
「ネリー、もう恐らく聞こえてはいないのでしょうけれど……」
「u、uu……i?……ォ?」
「っ……力をそのように振り回してばかりいると、いつか大切なものまで傷つけてしまいますよ」
「uuuuu! ゥ、ゥァアッ」
「……苦しいでしょう――――今、楽に」
短く言い放ち、イオは飛び出す。かぶりを振り続ける小さな存在に。
「u……アア、アアアアッ!」
四肢を地面に這い蹲らせたままのネリーは自家中毒を起こしかけているのか、
膨れ上がる『静寂』の渇望を割れる寸前の風船のように抱え込んだまま、硬直した筋肉を時折痙攣させながら草を掻き毟る程度の動きしか取れない。
しかし逆に言えばそれはまだ彼女本来の理性が残っている証拠だとも言える。周囲に撒き散らされている蒼のマナの量は尋常では無い。
無警戒に近づけばそれだけで精神力の弱いスピリットなら共鳴を受けてしまうだろう。しかし、今のネリーには反撃するだけの余力は無い。
イオはそう判断し、それと同時に『理想』を繰り出す。ゆっくりと、それでいてお互い避けられない距離で。
「ア、アアッ……ィ、ォ」
「?!ッッッッ!!」

 ――――キンッ!

「――――ぁ」
「……ふう」
「ぇ、ぁ、イオ? ネリー……ち、か、……ら?」
「……こんばんわネリー、もう大丈夫。……今は忘れて、ぐっすりお休みなさい」
「――――」
どさり、と糸の切れたような身体が倒れこんでくる。
イオは慎重にそれを受け止め、手元を確認し、交わった『理想』の刃から同調してくるその意識を少しづつ吸収し、揉み消していく。
未だネリーが離さない『静寂』。その細身からどんどん失われていく、先ほどまでの邪な輝き。
やがてそれはくすみ、そしてただ月の光を反射するだけの鈍い銀色へと変わる。
イオは見届け、そして長く吐息を漏らす。額からは汗が止め処も無く流れ落ちている。
殺す、つもりだった。手遅れならば。
しかしほんの少しだけ、刹那の瞬間。極僅か垣間見えた希望のようなものが、『理想』の剣先を鈍らせた。
結果、ここに来た“本来の”任務は果たせなかった。なのにどういう訳なのか、心をよぎるのはただ深い安堵感のみ。
「……私に出来るのはここまでです、ヨーティア様、そして……ユート様」
風が彼女の軽い衣装を白く波立たせ、その色をさらって行く。
紫檀のストライプと相まって、それは夜の海に溶け込む潮の流れのようにも見えた。