相生

衝突し、絡み合うようにして落ちていったネリーと敵の少女の居た空間のすぐ向こうに、目指した"入り口"がぽっかりと口を開けている。
しかしセリア達4人は彼女達を追いかける事も、又その先に進むことも出来ず、ただ眼前に忽然と現れた人影に釘付けにされていた。
長雨のせいか空気中に浮いた細かい水滴が霧のように舞い、輪郭を曖昧にはしていたが、
かつて砂漠で遭遇した時と相も変わらぬふてぶてしさだけは隠しようもないその尊大な態度、口調。
男は、二人が落ちていった崖の辺りをつまらなそうに見やり、呟く。
「全く、役に立たない……ふむ、期待をかけ過ぎましたか。所詮はその程度と言った所ですかねぇ。いやいや、お恥ずかしい」
「――ソーマ・ル・ソーマ!」
吐き出すように叫び、『熱病』を構え直すセリアの瞳が青く燃え上がる。
男――ソーマはその気色ばんだ様子を窺ってすら何か面白いものを眺めているかのような表情を変えなかった。
それどころか肩から吊るしていた長剣をゆっくりと鞘から引き抜き、細身の銀色を口元に近づける。
「おや、私を知っていますか、感心ですね。ですが、それにしてもラキオスの妖精というものは相変わらず躾がなっていないらしい」
「……正気?」
よろよろと立ち上がったヒミカが呟く。生身の人間が、スピリットに勝てる筈が無い。そんな表情が露骨に出ている。
殊更念入りに探ってみても、周囲に他の敵――具体的には妖精部隊――の気配は今の所ネリーと共に落ちた少女以外感知出来ない。
壁の上辺、屋上にはずらっと並ぶ一般兵が弓を番えているのは知っているが、彼らは臆しており、スピリット同士の争いが収まるまでは決して動かない。
つまりこの場にいる敵は正真正銘この男、人間1人のみ。単独で、一体何が出来るのか、と。
しかしその裏付けによる威圧も物ともせず、ソーマは刀身越しに『赤光』とヒミカを交互に見やり、静かに勾配を下り始める。

「正気もなにも、その不遜な態度が気に入らないのでねぇ。故障だらけの道具の分際で、口の利き方に気をつけなさい」
「そうですねぇ~。ぼろぼろですぅ~」
「ハリオン、そこは正直になる所ではありませんよ」
木にもたれかかったままのハリオンが神妙に頷き、息の荒いファーレーンが窘める。
「確かに体調は万全ではありませんけど。ですが、貴方一人で四人同時に相手が出来る程の技量が……ありますか?!」
問うなり、ファーレーンは大きく跳躍する。一足で詰める間合いは、確実に倒せるという自信から。
だが、侮りが油断を生み出す。そしてそれは同時に斬り込んだヒミカとセリアも同じ。
右から青のマナ、左から赤のマナ、正面には黒のマナ。3つの属性がソーマを取り囲む。これ以上無駄口を叩く事も出来ない筈の距離。
「――――ふん」
だが、その絶体絶命と思えた瞬間、ソーマは奇妙な動きを見せる。肩幅に開かれた足を、膝から上だけ折り畳む。
上半身を仰け反らせる、といった程度では無く、膝を中心軸に1/4πの円をすら描く頭部。外れた眼鏡が空中に取り残される。
地面とほぼ水平になった身体は3人に対して目標を失わせしめ、
「……あ?」
振り切ろうとしていた『熱病』の先で、ぽっかりと浮かぶ眼鏡。その隣で浮かぶ、もう一つの茶色い紙包みのような物体。
そこから一本の細い紐が延びている。その端の反対側を咥えていたソーマがにっと笑い、顎を引くのをセリアは見た。

  ――――……ズウゥゥゥン!

「!」
「何?!」
「あっ?!」
放り投げた爆弾による爆風と閃光は極僅か、目晦まし程度に過ぎない。
しかしその一瞬、動きの止まったセリアの中途半端に差し出した『熱病』の切先を、彼女自身の勢いを利用して引き寄せたソーマは、
突如目の前に出現した幅の厚い刀身に躊躇してしまうヒミカの『赤光』をそのまま『熱病』で受け止め、
抜き打たれた『月光』から盾にするように泳いだセリアの身体を引き寄せ、同時に鳩尾に膝蹴りを打ち込み、
反動で地面についた片手を泥の中で捻り、今度は腕を軸に地面とは水平左方向へと1/2πの円運動を行なった。
「貴女がたはっ!」
結果セリアの身体は九の字に折れ曲がったまま1メートル程空中へと放り投げられ、
「マナというものをっ!」
遠心力を充分に乗せた回し蹴りを横顔に受けてしまったヒミカは傍らの大木に背中から打ち付けられ、
「全く! これっぽっちも理解していないっ!」
まだ握られていた『熱病』ごと振り下ろされたセリアがファーレーンと激突する。
「はっ! 脆い、脆すぎますねぇ! 全く反吐が出そうですよっ!」
「……ぅ」
「く……油断、し、た……」
「セリア! ヒミカ! くぅぅっ?!」
後頭部を強打したヒミカは昏倒し、鳩尾への当身で気を失ったセリアの全身を何とか片手で受けたファーレーンは動けない。
そこに初めて振るわれたレイピアのような剣が、二人纏めて串刺すように襲い掛かり、瞬間庇ったファーレーンの肩口を貫いて"加速"する。
「ぇ……あ、あああっ!」
ファーレーンはもしも知っていれば、その動きは現代世界のフェンシングにそっくりだと気づいたかも知れない。
背中を向けて一度屈み込んだ姿勢から全身を叩き込むような一連の動きはソーマと彼女を一丸にして勾配の一番下まで運び、
そしてファーレーンの背中が大木を圧し折った所でようやく止まった。『月光』がばしゃりと彼女の手元から落ちる。
「ぅ、ぐ……―――――」
ずるずると腰を落とし、あひる座りの姿勢になり、俯いたまま動かない。喉輪に、手刀を打ち込まれていた。

光輪が消えるのを確認し、雨の中、ゆらりと立ち上がるソーマの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
「油断……? クク、これはまた場違いな事を。本当に愚かですねぇ、貴女達は」
振り向きざま、ファーレーンから引き抜いた細身をひゅん、と後方に投げる。
それで『大樹』が弾かれ、集中力の途切れたハリオンから治癒魔法の詠唱が途切れ、形を成そうとしていた緑色のマナが霧散した。
剣が回転しながら空中を彷徨う。目を奪われたのは、つい一瞬。それでも、次の瞬間には雨に濡れた男の顔が空間一杯に広がっている。
「……ぁ」
信じられない。人間が、あの距離を、一足で。そんな疑問をぐるぐると巡らせながら軽く口を開いたまま、ハリオンの意識は途切れる。
ぐったりとして動かなくなった彼女の左胸に、肋骨を数本折った拳がめりこんでいた。ずぼり、と鈍い音を立てて、ソーマは手を引き抜く。
肉体が衝撃に耐え切れなかったのか、拳の皮はめくれ、鮮血が噴き出していた。微かに痛みを感じる。手首も脱臼しているようだった。
「ふむ、いささか本気を出しすぎたようですかね……んっ」
ごきり。無理矢理外し、そして又はめ込む。想像を絶しかねる痛みも、かつて味わった地獄に比べれば大した事は無い。
ひび割れ、最早その機能を果たすとは思えない眼鏡を拾い、かける。地面に突き刺さっていた剣を引き抜くと、血痕はもう蒸発していた。
急にいらいらとしてきたソーマは、四肢を投げ出しうつ伏せに倒れている青く美しい妖精の頭をごりっと勢い良く踏みつける。
「ここをどこだと思っているのですか。戦場に油断もクソも無いのですよ」
「……ぅ、ぁ」
「おや、まだ息はあるのですねぇ。手加減をしたつもりは無いのですが……ふむ、所詮エトランジェの血とはこの程度のものなのでしょう」
顎に手をやり、ひとしきり首を傾げた後、高らかに哄笑する。狂気にも似た瞳の色で、空から落ちてくる雨粒に対して咆哮するように。
「フ、ハ、ハヒ、ヒャーーッハハハハハァッ!! そうですとも、そんな馬鹿げた力が、我々を凌駕するなどありえないのです!!」
天に向かって挑戦するように歩き回り、やにわに土を掻き毟る。爪にめり込む小石にも頓着はしない。
ただ、悦びの勝鬨を叫び続けて。止め処もなく涙を流し、唇から泡の混ざった唾を飛ばしながら。

「妖精風情が! あの狂った皇帝陛下殿が! 世界の何を! 判った気でいるのですか! 世界は我々人間のっ……あ゙?」
演説は、唐突に終わりを告げる。
「……ソーマ・ル・ソーマ」
気配に振り返ったソーマの眼前に陽炎のように降り立った天使は、かつて漆黒の翼と恐れられた帝国の剣士だった。

雨は景色から色を奪い、無彩色に溶け合ったウルカの全身は輪郭が曖昧になっている。
しかしその中でも強烈な存在感を示す白く輝くウイングハイロゥと燃え盛る双眸だけが、ソーマに正気を取り戻させていた。
「……おや、誰かと思えば裏切り者が紛れ込みましたか。折角です、教えて頂けませんかねぇ、かつての同胞の血を啜るというのはどういう気分なのかを」
「……っ」
「悲しいですねぇ、貴女には確かに最高傑作になる素質があった。それが今ではここに転がっているガラクタと同じ、ただの欠陥品にすぎません」
ソーマは軽くセリアの頭を蹴りつける。しかしそれでもびくん、と一度痙攣しただけで、彼女はそれ以上の反応を示さない。
完全に気絶しているのを確かめ、ソーマは歩き始める。ウルカを中心として間合いを外し、その円周をなぞるように。
雨は、やや小降りになってきている。それでも発生した沈黙が、森中の葉に受け止められる雨音のハーモニーをよりはっきりと強調させて已まない。
ウルカは、黙ってその場に濡れたまま、ソーマの動きだけをじっと見つめる。一挙一動も見逃さないよう、赤い、獣のような瞳で。

「思えばあの頃から戦いに徹しきれていない所がありましたが、あれが限界だったのかも知れませんね。ふむ、そういえば剣の声とやらは」
「……ソーマ、覚悟」
「覚悟? これはこれは、私は何を恨まれているのですか? かつての仲間が戦場で生き残れるように、強化を施したことですかね?」
「っ! その為にっ! 手前らの心を弄んでも良いとっ!」
「心? ハッ、下らない。剣の声が聞こえないなどと見当違いも良い所の悩みを抱えていた貴女が、今更それをいうのですか?」
「~~ッ、戦いとは」
「そもそも心などという幻想は貴女方には必要無いと、何度言えば判るのですかね! 道具風情が戦を語るなど、小賢しい!」
「いざ!」
ソーマの歩様が丁度丘の傾斜に差し掛かった所で、弾かれたようにウルカは飛び出す。
だがその直前、まだ残像を残す前の初動に半歩先立ち、ソーマはにぃ、と笑った。
先ほどの戦闘で乱れた呼吸を整える為の時間は稼いだ。理解は出来ないが、こういったやり取りがラキオスの妖精達を激昂させる事も判っている。
その証拠に、ウルカの仕掛けたタイミングが、所謂気息体が僅かに一致していないのは永年の剣の修行で培った勘が確信していた。
ずれたその部分に集中し、ウルカが穿つ土の地面に視線を落とす。服の裾に隠し持っていたもう一つの紐を引き摺り出しながら。
「切り札は最後まで取っておく……そういえば、貴女には教えていませんでしたか」
ウルカが現れるまで、何も考えずにその辺をぶらついていた訳ではない。気絶している4体の妖精に止めを刺すだけならば簡単だった。
しかしソーマはそこで、"戦果"を拡大する戦法を選んでいた。すなわち、4人を囮として使い、罠を張り待ち受けることを。
手首を使い、くい、と紐を引く。すると同時に、地面へと一直線に穿たれていたウルカの歩様が唐突にがくん、とその軌跡を途切れさせる。

「――――あッッ?!」
鉄製の、獣を捕獲する為の鋏がウルカの右足首をがっしりと捕らえ、羽ばたきかけたウイングハイロゥが地に落ちる。
「……く、うおおっ! 卑怯なっ!」
勢い余って膝を付いた体勢のまま、ウルカは呻く。いくらスピリットとはいえ、腱に噛み付いている分厚い刃を引き離すのは難しい。
暴れれば余計に深く食い込み、骨にまで到達する。様子を窺っていたソーマは剣を構え、身を沈める。間合いを測り、飛び出す体勢で。
「ハッ、お似合いですよ! 心などと、そのようなつまらないものをいつまでも抱えているから――――は?」
「うぉ、うおおおおおっっ!!」
「――――なぁ?!」
結果から言えば、ソーマの演説は長すぎた。
悠々と近づく彼の目前でばつん、と激しい音を響かせ、自らの足首を"引き千切ってしまった"妖精の瞳が赤く迫る。
ウルカは鮮血を噴き出しながら、もう一方残った左足で大きく踏み込んでいた。
それだけで二人の距離はお互いの射程圏内へと突入し、『冥加』の刀身が唸りを上げ、闇の加護を受けたマナを噴き出しながら鞘を滑る。
「っそんなものでっ!」
一方のソーマも多少は驚いたものの、片足のみの踏み込みで既に漆黒の翼とは思えない乱れた剣先に恐れなどは感じない。
受け流し、すれ違いさま薙ぎ払う。たとえ致命傷を与えなくても片足を失った敵など、その後でどうとでもなる。
ただ、この一撃だけをまともに受けなければ良い、そう判断して迎え撃つ。
剣で受け、かしん、と予想外の軽い音で『冥加』をすり上げると、眼前には予想通りの大きく開いてがら空きな胴が見えてくる。
「貴女も――――」
そしてそれが、ソーマの右目が見た最後の光景だった。
「――――はがあっ?!!」
熱い、ソーマがそう感じたのは、眼鏡を突き抜けたウルカの親指が右眼窩に中程まで潜り込んだ後だった。

「ひゃああ、ひゃがはははぁぁっ!」
「――――グッ!」
狂ったように暴れ始めたソーマの剣の刀身が偶然横殴りに当たり、そのまま吹き飛ばされ、濡れた地面を滑り、崖の手前でようやく止まる。
しかしもう、ウルカは動けない。足首を失ったという情報が自律神経を駆け抜け、無傷な筈の左半身をも不自由にさせている。
女性の、華奢な肉体が個体の自己保存本能を優先させ、心の命令をすらもう受け付けてはくれなかった。
がくがくと勝手に痙攣する全身を諦め、ただ唯一動く首を懸命に捻り、唇に付いた泥を不快に思いながらソーマを睨む。
「ははぁ、ははあははぁぁぁっ!」
ソーマは片目を抑え、もう一方の腕でぶんぶんと剣を振り回している。既に正気とは思えなかった。
血塗れの顔には何故か笑みを浮かべたまま、ふらふらと、壁の穴へと戻りだす。
もはや何を求めているのか、そして一体どうしたいのか、それすらも夢の中の出来事であるかのように。
今は哀れな姿がウルカの視界から消えても暫く、その偏狂的な笑い声は森中に響き渡っていた。ただ、残された眼鏡だけが泥に半分埋もれている。