相生

Nerium indicum Mill Ⅷ

ニムントールは、一人てくてくと見通しの悪い獣道を歩いていた。
「シアー達、どこいっちゃったんだろ」
突き出た細い枝々が少々邪魔ではあるが、踏みしめている地面はゆるやかに上り始めている。
法皇の壁は敵にとっての第一の防衛ラインであるから、当然篭城の際には周囲を見渡す事が可能な地形に沿って張り巡らされている筈だった。
簡単に言えば丘、もしくはそれに準じた山の頂上。視界を狭くしたり、押し寄せようとする敵の盾となる木々が生えてなければ尚都合が良い。
つまり坂を上っている以上、このまままっすぐ進めばそのままいつかは法皇の壁に辿り着ける。もしくは味方にも合流できるだろう。
「ま、その前に敵に遭うかも知れないんだけどね」
言いながら『曙光』の柄を軽く持ち直し、手元だけで確かめる。剣は先程から、不自然な位に黙り込んでいた。
元々敵意に対しては敏感な神剣なのだが、しかしそれが持ち主の性格を反映したものだとはニムントールは認めていない。
だがそんな事よりも、今は敵地にいる筈なのに『曙光』が全く反応を示さないのはニムントールにとってはかなりの不安材料だった。
「……まぁいいけど。その方が楽だし」
冷静に戦術講義で学んだ知識に則った行動。自分は間違ってはいない。
誰に聞かせるでもなく軽口を叩いてみる。しかしそのくせ口調は微妙に硬くなっていく。
俄かにざわついたような空気を神剣を通してよりも先に肌が感じてしまい、
そしてそれを気のせいだと言い切れる程ニムントールは楽観主義ではない。いつのまにか冷たい汗をかいている。
グリーンスピリットにとっては心地良い筈の、ふんだんに繁った緑の木々。だが今はその隙間に、何か粘っこく纏わりつくような息遣い。
「?――――ッッ!!」
ニムントールは、跳ねた。
「……グゥッ!」
しかしその時には既に敵の振るった棍棒のような神剣が刃の側面でニムントールの踝を粉砕していた。

「ア、アアアッッ!」
全く気配も感じさせず ―― 少なくともニムントールには ―― グリーンスピリットは殆ど地面すれすれの姿勢から音も無く忍び寄り、
そこで初めて神剣に鉄のように凝縮させたマナを送り込み、走りこんだ勢いのまま小柄な体躯を一旦大きく捻りながら腕を畳み、
逆巻く風圧に気づいたニムントールの空いた胴へと反動を利用したソニックストライクを叩き込んできた。
華奢な体つきからは想像も出来ない会心の一撃を咄嗟に避わそうとしたニムントールの足元にその全威力が集中し、
遅れてきた衝撃波とマナの奔流が真新しい戦闘服を切り裂き、構えかけた『曙光』の加護をいとも容易く突き抜ける。
「くっ、こ、このおっ!! これくらい、でっ!」
「ハ、ハハハァ、ハァッ! シネ、シネェッ!!」
グリーンスピリットは、反撃を許さない。畳み掛けるように連続で響く、鈍い金属音。
まるで時差でもあるかのように、今更のように『曙光』が悲鳴を上げ始める。重い、と舌打ちしている暇も無い。
「あ、グッ!」
初撃で受けた傷が拙かった。
二度三度、辛うじて目で追える流星のような動きに一々後退を余儀無くされた足首ががくっと崩れ、噴き出した血で金色に染まる。
同じグリーンスピリットにこうも圧されるのは初めての事。しかし悔しいが、襲撃を捌けない。
防いでいる腕が次第に痺れ始めてくる。的確に急所ばかりを狙ってくる敵の動きは防御魔法を唱える余裕をすら与えてはくれそうに無い。
繰り出されるグリーンスピリットの斬撃の勢いはもはや神剣全体を鋭い刃にまで高め、それでいて叩き潰そうという威力は損ねていない。
それでも身についた剣技だけで小刻みに防ぎつつ、ニムントールはようやく悟った。敵は、強い。"自分より高位のスピリットなのだ"、と。
どん、と壁に退路を塞がれ、しまった、と思った瞬間にはディフェンスの隙間から、竜巻のようなマナの塊が迫って来ている。
ニムントールはぎゅっと目を瞑った。助けて、生まれて初めての弱気な本音を小さく呟きながら。

  ―――― ドスッ!!

「全く困った嬢ちゃんだな。来るなって言ったつもりだったんだが」
「……コウインっ!」
壁だと思っていたのは、光陰だった。敵を弾いた『因果』を肩に担ぎながら、にっと笑う。
グリーンスピリットは獣のように四つんばいで離れた地面に着地し、一瞬鋭く睨みつけた後、森の奥へと消えていった。
光陰は追いかけるでもなくその後姿をのんびりと見送り、そして座り込んでしまっているニムントールへと振り向く。
「ああ、正義の味方、コウイン様だ。よ、ニムントールちゃん。何やってんだ、こんな所で」
「あ、ちょ、ちょっと」
そのまま片腕で抱き締められてもニムントールは竦んだまま何も出来ない。
先程の戦闘での恐怖の余韻か、それとも安堵感か。感情とは裏腹に、つい身を任せてしまう。
「あ~、ま、嫌ってるならそれでもいいがな。ちょっとだけ我慢しててくれ」
「……ふぇ? ……あ、これ、緑の」
「ああ、どうだ? 少しは見直してくれたか?」
「……」
光陰の放つ黄緑色のオーラは、グリーンスピリットが加護を受ける大地のマナに非常に似ている。
その作用には回復要素が含まれており、心地いい。ニムントールは何も言わずに、小さく一度だけこくりと頷く。

長くしつこく降り続けた雨も、ようやくおさまろうとしている。
「……おんぶ」
「へ?」
「だから、おんぶ。ニム、動けないんだから」
仄かに明るくなってきた木々の間で、ニムントールは囁き、それきりそっぽをむく。
負傷した踵は既に完治しており、自力で立ち上がるのに支障はない。そしてそれは光陰ももちろん承知している。
だが光陰は呆れたように肩を竦め、それから黙ってニムントールに背中を向け、屈みこむ。
「……よっと。やれやれ、置いてきた今日子が気掛かりなんだがな……痛てっ!」
「……ふん」
反射的に光陰の肩を抓ったニムントールは大きな背中にゆっくりと体重を預ける。今だけなんだから、そんな言い訳を自分に試みながら。