相生

Bidens atrosanguineus Ⅷ

ヘリオンは、道に迷っていた。
「ふえぇぇぇ~、またですかぁ~~~」
そもそも追いかけている最中に、濡れた枝から足を滑らせたのが拙かった。
咄嗟にウイングハイロゥでバランスを取り、今度は上手くいったと心の中でナナルゥに反撃し、
空中で体勢を立て直して颯爽と降り立ったつもりが、そこは豪雨により発生した泥沼。
うっかり手放し、沈めてしまった『失望』を掻き出しているうちに剣の声も再び聞こえなくなり、従ってネリーの気配も捕まらない。
「ゔうぅぅ~。どうして私ってばいつもいつもこんな時に限ってぇ……」
真っ直ぐに法皇の壁目指して飛んできたのは判っているので右手には恐らくL字に曲がった街道があるのだろうが、それも心許無い。
泥んこになってしまった戦闘服に、黒は目立たなくて良かったなどと現実逃避を始めながら、とぼとぼと歩き出す。
「……あれ?」
何度目かに掻き分けかけた草叢の向こうで、何かちかっと赤いものが光り、足を止めた。目を凝らし、警戒の為に腰を落とす。
鞘に納まっている『失望』の柄に左手をかけ、
「あうっ!」
今まで両手で抑えていた弾力のある細い草束が、反動で勢い良く跳ね返る。
顎にクリーンヒットし、ヘリオンは思わず仰け反った。草は充分に濡れているので予想外に痛い。
涙目になりながら顎をさすり、再び視線を前に戻す。すると目の前には、いつのまにか敵意に満ちたグリーンスピリットが迫って来ている。

「え……わっ! わ、わ、わっ!!」
突然袈裟に切り込んできた細身の神剣を、『失望』を鞘ごと押し当て懸命に受け流す。
バランスを崩した所に、旋回した刃。慌てて首を引っ込めたその空間を、ひゅん、と通過する鋭い刃音。
既に居合いの間合いではない殺所での、超接近戦。それでもヘリオンは、『失望』を抜かない。いや、抜く暇を与えられない。
あっという間に追い詰められてしまった為に、自信の拠り所はがらがらとあっけなく音を立て崩れ去ってしまった。
もう、教科書通りの戦法も技術も全く役に立たない。培った速度も追いつけず、変則的な攻撃も敵の威力が遥かに上回っている。
そんな状態で求められるのは、豊富な経験が支える臨機応変。しかし残念ながら、ヘリオンはそれを持ち合わせてはいない。
乱暴に繰り出されてくる溶岩のように硬いマナを馬鹿正直に順番に、その度突き抜ける鈍い衝撃と共に刃で受けるだけ。
「あうっ! ぐ、きゃあっ!」
相手が格上なのだと、半端に悟ってしまったのが事態の拙さに拍車をかけていた。
この場から逃げ出したいのだが、身体が竦んでしまって思うように動けない。うかつに背を向ければ、それが最後の時間になるだろう。
辺りには、次第に血飛沫が舞い始める。しかしそれが手負いのグリーンスピリットのものだとは、ヘリオンは気づかない。
目の前の竜巻のような攻撃を懸命に捌く。左手の籠手が弾かれ、骨が折れるような衝撃に歯を食いしばる。脂汗が全身を支配し始めていた。
このままだと殺される。死ぬ。――死ぬ。小さな心臓がうるさい位の悲鳴を放つ。針のように頬に当たる雫。頭の隅で、今は雨だったのだと思い出す。
踏ん張った右踵がずるりと滑り、体勢が崩れる。結果力の入れ処を失ったヘリオンの身は、差し出されるように右へと大きく泳ぐ。
そこにもう何度目かも判らなくなった斬撃が襲い掛かる。為す術も無く、ただばしゃばしゃと跳ねる茶色の地面を見つめるしかない。

 ―――― それで、いいの?

「――――ッ! ヤだぁっ!!」
突然手元から"聞こえた声"が、僅かながらも力を取り戻させていた。大きく開いた左肩を狙うグリーンスピリットを見上げ、鞘を走らす。
ようやく刀身を現した『失望』は眩い程に輝いていた。滑るような軌跡が敵の神剣と交差する。その瞬間、偶然が引き寄せられた。
「あ、あああっ!」
「クゥッッッ?!!」
グリーンスピリットの神剣は、ヘリオンの左鎖骨を砕いた所でそれ以上進まず、停止していた。
その寸前、居合いにより伸びた『失望』の剣先が握る手の人差し指だけを切断していた、その偶然の為に。
ヘリオンは、狙った訳ではない。ただ無我夢中で振り回しただけ。それでも、人差し指のみとはいえ失えば力は入らない。
グリーンスピリットは止めを刺そうと柄に噛み付き、それを支点に体重をかけ、じわじわとヘリオンを圧し潰していく。
食い込んでくる刃がもたらす激痛に気が遠くなりかけながら、ヘリオンは空いた右手の籠手でそれを懸命に防ぐ。
「……ナニ?」
「剣は……籠手で受ける……一度抜いた剣は……鞘に……収める」
「……??」
グリーンスピリットの表情に、疑念の色が灯る。ヘリオンは、ぶつぶつと呟いていた。
俯いたまま呟き、そしてぶるぶると震える左手を恐ろしく緩慢な動作で引き戻そうとしている。
既に勝負付けは済んでいる。恐らくあと少し少女が力を篭めれば、傷は心臓へと達するだろう。
ヘリオンの右肩から噴き出す鮮血はぬるりと戦闘服を伝い、地面に赤い染みを作り始めている。
だが、グリーンスピリットの脇腹や神剣から滴り落ちている鮮血も、それ以上に激しく地面を彩っている。
「……認めて、それから、それ、から……剣に、乗せる……心を」
「――――ッッッ!!!」

 剣に、心を乗せるのです……――――

瞬間、少女は殆ど自失した。乱れた気合が心の奥底を揺さぶり始める。
頭の中で、そして外で弾ける何か。混乱した思考から大声で叫ぶ者。
弾ける緑が少女の視界を埋め尽くし、同時にヘリオンは『失望』を鞘に収め終わっている。
お互いに、目の前で起きている事態を正確に把握してはいない。
「……『失望』!」
体勢を崩したグリーンスピリットの首めがけ、星火燎原の太刀が迫る。
しかし既に力尽き、よろよろとした軌跡を描く動きはとても駿速とはいえない。
何かを探すように身を乗り出したグリーンスピリットの体躯にあっけなく鍔元を押さえられ、
威力を消され、そのまま圧し掛かられてしまう。背中に自分の、そして目の前の敵が吐いた冷たい血の感触。
混濁した意識の中、ぼんやりと浮かぶグリーンスピリットの戸惑う表情を揺れる視界に収め、頬に当たる雨が小降りになってきているのを感じる。
そしてそこでヘリオンの意識は背中の赤黒い泥へと引きずり込まれるように、闇の中へと落ちていった。