相生

Delphinium×belladonna Ⅷ

目の前で剣を構える"白き鎧を纏った妖精"に何か危険なマナの気配を悟った『静寂』は、
暫くの睨み合いの末、主の身体を大きく後方へと跳躍させていた。
斜めに崖を駆け上がり、そこで大きく聳え立った石の障害を一振りで崩す。
粉砕された衝撃が生み出す瓦礫と、雨混じりの噴煙。飛び込むと、屋内だった。幸い、追っ手はまだ届かない。
細長い通路を、ウイングハイロゥを慎重に調整しながら飛び進む。もっと確実に奪えるマナが必要だった。

「……?」
ふらっと目の前を横切ろうとする影が、何やら無造作に剣のようなものを振り回している。微かにだが、マナの気配。
得たり、とばかりに『静寂』は主の唇をぺろりと舌で舐めさせ、身体に秘められた水のマナを少しだけ解放し、獲物に向けて牙を剥く。
振り向く姿が人間のものでも、スピリットでももはやどうでもいい。暴走しかけている主の精神が渇望の障害とならなければそれで良い。
片目だけを大きく見開き、半身を沈め、手にした剣の先をこちらへと向ける標的へとただ殺到する。いや、"させる"。
「ッ……もうこんな所にまで来ましたか!」
「……」
主が修練してきた戦術指南によれば、あの構えでは切先直線延長上での攻撃以外、人の肉体では再現不可能。
『静寂』は右のウイングハイロゥだけを殊更に折り畳み、揚力の失った身体を長く続く右側の壁へと着地させ、そのまま駆けさせる。
斜め上方へと駆け抜け、標的の横を駆け抜け、何故このように無駄に高い天井なのかを理解しかねつつ跳躍し、
背後へと降り立つと同時に自らの刀身に先程引き出したマナを篭めて振り下ろす。人間の反応速度では、明らかに間に合わない。

「?!」
「ふむ、中々の完成品と見ましたが……少々、観察能力が不足しているようですねぇ!」
「……グッ! アッ!」
向かって右側、つまり相手にとっての左側を攻撃地点に選んだのには、さしたる理由が無い。
ただ単に主が自分を左手に持っていたので、反動を利用して威力を増すのには都合が良かったというに過ぎない。
しかし支配した主の肉体には規則"正しすぎる"呼吸や間合いがあり、標的がそういうものの機先を制する技量の持ち主であり、
更には標的は隻眼であり、この場合死角からの弱点攻撃がセオリーだという単純な戦法すら、主が気性として持ち合わせていなかっただけ。
そしてそれを『静寂』が悟ったのは、背後に降り立ったその瞬間、正に待ち構えていたかのような閃光弾が炸裂し、
爆風で互いに減速しながら反対方向へと離れていく際、光の中から飛来した小さな細いナイフのようなもので左肩の関節を打ち抜かれた後だった。

「ッ!!」
「貴女も、マナの使い方を知らない」
爆風の中、ソーマは既に反転し、まだ着地もしていないネリーの身に迫っている。
骨同士を繋ぐ腱は物理的に切断されており、『静寂』にしてみれば反撃するには自らを持ち替えて貰う必要があった。
だが、人間相手に、損傷を受けた身軽な身体は悲しいほど時間が足りない。
ソーマは先程と同じような刃物を懐から数本取り出し、取り出すと同時に放ち、それが面白いほどネリーの急所を貫いていく。
右大腿骨、左脇腹、右鎖骨、左大腿骨。知覚を越える痛みの増加に伴い戦闘能力は次々と失われていき、
最後に右乳房を拳で打ち抜かれた所で背中から冷たい石畳に落下した身体は華奢な四肢を放り投げたまま全く動けなくなった。
「……ぅ」
無意識にくぐもった呻きを漏らし、詰まった呼吸を取り戻そうと胸が軽く上下する。
『静寂』は判断した。依り代である彼女に死なれては、マナの蒐集どころではない。
このまま強制による支配を続けていては、肝心の肉体を構成する為のマナが欠乏してしまう。意志が、すっと後退する。
「……んぁ?」
「おや、"戻って"しまいましたか。いや、実に惜しい」
「――――ひっ?!」
こうして自我を取り戻したネリーが最初に見たものは、圧し掛かり、戦闘服の胸元を今正に引き裂こうとしている狂った隻眼の男だった。

「い、嫌ああぁぁぁぁっ!!」
びぃっ、と鋭い引き裂き音が、広い廊下へと響き渡る。
剥き出しにされてしまった素肌が当たる冷気で鳥肌を立たせ、男の顔からぼたぼたと滴り落ちてくる血液の熱さが気持ち悪い。
抵抗しようと身体を捻ろうとして全身を針のように刺す激痛に強制的に弛緩させられ、ネリーはあやうく気絶しそうになった。
「うあっ! あ、あ……ぅ」
「ほう、意外と幼い。しかし、生かしておいた価値はあります。才能がありますよ、貴女……ク、ククク」
「は、……放、せぇ……」
本能的な恐怖に駆られ、絶望的な強がりで睨みつける。
しかし涙を浮かべたSappheiros(サファイア)を想起させる美しい紺碧の双眸は、男に愉悦の表情を漏らさせてしまう。
ぐっ、と顎を仰け反らされ、それでも自由に動かせない全身が悔しい。事情は掴めないが、酷い事をされようとしている。
ネリーは動かない左手をそこだけぽっかりと空いている壁の穴に向けようと懸命になり、そして動かないと悟ると、泣きそうになりながら呟く。
「やだ、やだやだぁ……シアぁー……助けてよぅ……」
「そうそう、その怯えた顔が実に妖精風情にはふさわしい――――?!」
どん、と鈍い衝撃。
「ネリー! 見つけたぁ!!」
「チイィ!次から次へと! 全く、 しつこいですねっ!」
「ヤアァァァァッ!」
ネリーの開けた穴から飛び込み、咄嗟に翳したソーマの剣を弾いたのは、大きくウイングハイロゥを羽ばたかせたシアーだった。