相生

Anthurium scherzerianum Ⅷ

「あ、……えっと」
オルファリルは、当惑していた。
『理念』の導きに従い、崖を横目に周囲の気配に気を配りつつようやく辿り着いたのは、法皇の壁。
あまりにも複数の轟音と衝撃が響き渡り、肝心のネリーもどこにいるのか判らないままいつの間にか最前線まで来てしまった。
入り口も無く、また、入り口があったとしても流石に単独で侵入するつもりもなかったが、こうなってはここは行き止まり。
さて、右に行こうか左に行こうかと迷っていた所で背後に弱々しい気配を感じ、振り返ってみれば敵の少女。
しかもそのグリーンスピリットは既に戦闘を繰り返してきたのか身体中ぼろぼろで、剣を杖にやっと立っているという有様。
「……」
このまま先制を仕掛け、"やっつける"のは簡単だと思った。
しかし、どうしても腕が動かない。ヨーティアに言われた言葉が金縛りのような効果を発揮しながら耳の奥で鳴り響く。

 ―――― 気に障ったなら、いつでも殺していいんだよ

気に、障っていない。むしろ、可哀想という感情だけが優先して湧き起こる。
ふと、エヒグゥを思い出した。目の前の敵が、何故だか雨に震えていた小動物に被さってしまう。――怯え、警戒し。そして傷ついている。
そっと胸の奥から滲み出てくる不思議な感覚。ごくっと喉を鳴らし、半歩歩み寄る。すると相手も同じように、半歩下がる。
「……ね、やめよ?」
オルファリルは、囁く。敵意が無いと、慎重に伝えるように、身を屈めて。
「uuuuu……」
少女は、唸る。正体不明の意地に押され、ふらつく身体のマナを絞り集めて。

 ―――― ガッ!

「っっっ!」
雨中を割いて一直線に突撃してきた少女の剣を、紫色の『理念』が受けた。
放出されたマナに空気が圧され、周囲の樹が張り巡らせていた枝々を次々とへし折っていく。
「ちょ、ね、やめようよぉ!!」
主の危険を悟ったスフィアハイロゥが殆ど自動的に防衛活動を示し、ひゅんひゅんとせわしく動き回る。
不規則に巡り、標準を合わせるのは"敵の"背中。ぎりぎりと憎悪に満ちた少女は気が付いていない。ただ目の前のオルファリルを睨んでくる。
『理念』から生み出される衝動は、より引き出す事は出来ても制御する方法などは知らない。今までの戦いで、そんなものは必要なかった。
これだけの敵意を剥き出しにされ、尚且つ自らの生命も危険に晒されているにも拘らず、遂にオルファリルは泣きそうな声で叫ぶ。
「やだ……やだやだ! このままじゃ、――――殺しちゃうよぉ!!」
皮肉にも、呼応したのは『理念』。
ぶわっと膨れ上がった火の属性がスフィアハイロゥを赤々と変化させ、詠唱も無く槍状に変化し、
その内の何本かがグリーンスピリットの弱々しいシールドに巨大な穴を開け、残りがそこに殺到する。
そこ、無防備に晒された胸の中央へと。フレイムレーザー。オルファリルは目を見開き、ひっと短く息を飲む。
「やだぁーーっっ!!!」
「永遠神剣『理想』の主として命ずる、不純物を除き、純粋なる元素へと姿をかえよ――――ピュリファイっ!!」
瞬間、炎の槍はただの熱量へと変換され、轟音と共にマナとなって霧散していた。
そして、そこに立っている。全体に白っぽいローブのようなもので雨を避け、不思議な混ざり合った色のマナを纏うスピリットの眷属が。

「……間に合いましたか」
「っ! イオお姉ちゃんっ!」
「怪我はありませんね?」
唇の端だけで、イオは微笑む。元々白すぎる顔色は、今は戦闘のせいか、うっすらと紅を帯びている。
「お姉ちゃん……オルファ、オルファ……うわああぁぁぁぁんっ」
オルファリルは脇目も振らずにその胸の中へと飛び込むなり、わんわんと泣きじゃくる。
戦場が怖い、と思ったのは、初めての事だった。歩み寄ろうとした相手を殺そうとした恐怖の余韻が、今も体中を戦慄として駆け抜けている。
その心中を慮り、それでもそっと尋ねるイオの口調はあくまでも穏かだった。
「オルファリル……スピリットは戦う定め……嫌に、なったのですか?」
「ッッ……ううん、ううんっ! 違うよ! 違うんだよぉっ!」
激しく揺れるお下げの髪に手を伸ばしかけたイオは一瞬戸惑い、それから恐る恐る触れ、そして結局は優しく撫でる。
敵の少女は、もうこの辺りにはいない。ピュリファイの水蒸気爆発に紛れ、姿を消している。だが向かう先は、予測がついている。
空を仰ぐ。泣き止む頃には、雨雲も晴れるだろうと思いながら。

しかし当たり前すぎるイオのその予想は、数秒後には破られてしまう。
「――――行かなきゃ」
「……オルファリル?」
腕の中で顔を上げ、ぐいっと力強く涙を払うオルファリルがいた。唇をぎゅっと噛み締めている。
イオの目が大きく見開かれていく。目の前の少女の目元は赤く腫れたまま、年相応の幼さを残したまま。
にもかかわらず決意の篭ったPeigon's Blood(鳩の血の色)の瞳の奥には、深みのある大人びたイメージが被さっていく。
「オルファが行かなきゃ。教えてイオお姉ちゃん、あの子はどこ?」
「彼女は混乱しています。危険ですよ?」
「そんなのっ!……へへ、お姉ちゃんが言ったんだよ、スピリットなんだから、戦わなきゃだめ、なんだよね?」
「……私はヨーティア様に、貴女の保護を命じられてここへ来ました。必要ならば、障害は取り除かなければなりません」
「お姉ちゃんっ!」
「ですが、今の貴女には……もう、その必要は無いのかも知れませんね」
「あ……」
「急ぎましょう、リュトリアム。彼女はおそらく、そう長くは保ちませんから」
「う、うんっ!……へ? りゅーと? なにそれ。オルファはオルファだよ?」
「……、あら? ふふ……さあ?」
首を傾げるオルファリルを先導するように、歩き出す。
誤魔化したイオにも、封印されていた間の記憶から綻びた発言の説明はつかない。
それよりも今は、与えられていた筈の命令に背いてまで行動している自分の足取りがこんなにも軽い。