相生

Delphinium chinensis Ⅸ

クォーリンの制止を振り切って無理矢理動かした身体は脇腹から胸に到達してまだ塞がってもいない傷と相混じり、悲鳴を上げ続けている。
それでもシアーはネリーの気配を懸命に捕捉し、辿り着いた。法皇の壁の内部、組み伏されていたネリーの元まで。
初撃で大きく吹き飛ばした人間は、剣を弾かれた衝撃からか手首を抑えて蹲ったまま動かない。警戒しつつネリーの側へと駆け寄り、抱き抱える。
「ネリー! 捕まえたよ? 今度こそ、今度こそ捕まえたよ!!」
「あ、あはは……捕まえられちゃった、のかな? 良く、判んないけど」
「もう……心配したんだよ? いっぱい、いっぱい心配したんだからぁ……」
「うん、ごめんね……ごめん……ふぁ」
「……? ネリー?」
腕の中で、ネリーはくたっと力を抜き、そのまま気絶していた。
呼吸の安定を確認し、静かに横たえ、そしてシアーは立ち上がる。身長に余る、『孤独』を片手で構えながら。
ぐいっと片手で拭ったネリーと同じSappheiros(サファイア)を想起させる紺碧の双眸で、一つの影を捉えながら。
唇を噛み締め、身体の震えを逃がす。見据えた先で、敵の男がゆらりと立ち上がっていた。
ずだずだに切り裂かれ、泥にまみれ、もはや防護としての役割を放棄してしまっている黒っぽい服。そこから剥き出した、無数の切り傷。
右肘から先が通常有り得ない方向へとへし曲がり、大きく腫れあがっている。そして片目からは、大量の血を流し続けていた。
「――――ヒッ」
シアーは、短く息を飲む。確かに、人間。なのに、怪物に見える。あんな怪我をしていたら、スピリットでも耐え切れない。
痛くはないのだろうかと、戦闘とはまた別の、異質な恐怖が身を竦みあがらせる。怨念のようなものが纏わり付いて、動けない。

怯える彼女をちらっと伺い、それから男はゆっくりと、落ちていた剣を拾う。
「ククク……怖い、ですか? 誰が、そんなものを、妖精に求めているのですか?」
「……ッ」
「ラキオスですか? それとも"世界"、ですか?……ほら、ごらんなさい。貴女が"壊した"のですよ。不遜にも、人間である私のこの腕を」
「ぁ……ぁっ」
ごきゅっ、と鈍い音を立て、肘から腕が"落ちる"。その腕をべしゃりと踏みつけ、そして踏んでから不思議そうに首を捻る。
鮮血が壁や床や男の全身へと飛び散り、辺りが俄かに色を取り戻す。無機質な灰色から、生臭い朱へと。
「おや、"治そう"と思ったのですが……まったく、役に立たない。まぁいいでしょう――――ハァッ!」
「ッッッ?!」
じりじりと後ずさっていたシアーは壁に背中を当ててしまい、びくっと震え、そしてその一瞬の隙に男は間合いを詰める。
シアーは、動けなかった。殺す事も、防ぐ事も、ましてや逃げ出す事も許されない。棒立ちのまま、近づいてくる切先を眺める。
「シアー! 目を瞑っては、ダメ!」

「ッ――――青い、牙?!」
「アセリア!……うんっ!」
声は、同時だった。
ソーマは咄嗟に身を逸らし、『存在』の気配を避わす。
一度見た者なら誰でも恐れるだろう、白い甲冑が殺到してくる前にと。
「チィィッ!」
そしてそのまま、剣を持った姿勢から拳を石床に叩きつける。途端、今まで居た空間に、痺れる程強烈なマナの奔流。
圧力に押されながら2度3度廊下を右へと反転し、弾むように『存在』の影響圏外へと飛び、着地の際の衝撃は膝で逃がす。
片腕なので、左右のバランスが取り辛い。
「……拙い、ですねぇ」
他のスピリットならば、策はある。
しかしこのある意味単純過ぎる神剣の意志には通用しない。万全でも、まともに殺り合う相手ではないだろう。
淡々と呟きながら、ソーマは次の策を探る。今度は正面から潜り込むように襲い掛かる、涙目の少女が水平に薙ぐ大振りの神剣を目で追いながら。
「負けない! シアーは負けないんだからぁ! タアァァァァッ!」
「拙すぎますねぇ! 貴女も! マナの使い方が!」
『孤独』の潜在能力を最大限に発揮したフューリーは重厚な水のマナを纏い、威力は申し分無い。
しかし起動も軌跡も単純で読みやすい上、シアーは向かって"左"から薙いできた。
つまりソーマにしてみれば、避わす体捌きが自然にアセリアの射程圏内からもより遠ざかる結果となる。

そして現実も、その予想通りに進行した。
流石に無傷でという訳にはいかず、力点を流すように受けた剣の衝撃から肘の骨が粉砕はしたが、それでも爆風と反動を利用して死角に回る。
丁度、アセリアが飛び込んできた穴の辺りへと。――――だがそこにはいつの間にか、待ち構えていたかのような緑色の髪。
「―――ナッ?!」
「間に合った……覚悟!」
シアーを追いかけている途中でアセリアと合流し、そのままウイングハイロゥで壁の内部へと運んで貰ったクォーリンの一撃は緑雷を纏っている。
「ッッ! あぐ、ぁぁぁっっ!」
大鎌のような神剣で弾かれたソーマの剣は地面に叩きつけられ、あっけなく"ひしゃげ"、ただの鉄の塊となる。
同時に、シアーの放った一撃で崩れかけた壁から飛び散った石片がばらばらと降りかかり、背中を痛めつけてくる。
もう痛覚なのか痺覚なのかすら判別不能な腕を庇いサイドステップを行なおうとしてバランスを崩し、そこでソーマはようやく悟った。
気を抜き、だらんと両腕を下げる。一瞬動きの止まった3人の訝しげな表情を順に眺め回しつつ。
「そのライトアーマ……クク、ライトニングス。なるほど、ここまでのようですねぇ」
稲妻の異名を持つ妖精は、確実に右目の死角に回りこもうとしている。正面からは気を取り直し、無言で突進してくる青い牙。
そもそももう、両腕が"役に立たない"。躊躇している暇は無かった。道具に止めを刺される、そんな屈辱を受け入れる訳にはいかない。

「今回は私の負けのようです。まさか使う事になるとは思いませんでした……が、今日の所はこれで失礼させて頂きましょうか」
服の胸に仕込んだ最後の紐を、血溜まりになっている奥歯で噛み締め、引き抜く。
すると直後、背中に隠していた炸薬が爆発し、それを目晦ましと勢いに利用して、ソーマの身体は宙に舞った。
「ヒャァハハハ! 私は忙しいのでね! 次の作品を創り上げねばならないのですよ! いつまでも貴女達の相手をしている暇は……――――」
ネリーの開けた穴の外に放り投げられ、仰向けに落ちていく。高らかに笑い、鮮血を雨の上がった中空へと巻き散らかしながら。
「……逃がさない」
「アセリア、待って下さい! それよりネリーを! まだ、不安定だと思います」
「……ん」
「シアー、いらっしゃい。もう、大丈夫だから」
「……う、うん……うんっ!」
今更緊張が解け、かくりと折れる膝を抑えながら、シアーはクォーリンに抱きついていった。