相生

Delphinium×belladonna Ⅹ

脂汗が額を流れ落ちていく。氷のような呼吸が冷たく喉を刺す。
この戦場に降り立ってから、再び鎌首をもたげてきた『静寂』の衝動。

すぐ隣にいるシアーに対して、ネリーは常に背中を向けていた。指先の震えを悟られないように。
「つぅ、くぁっ……ホント、辛いなぁ」
数間向こうの前面を覆い尽くす崖。その壁面からせり出し肉の厚い葉を自由気儘に広げている樹木を見上げる。
あちらこちらに潜み、無差別な殺意をぶつけてくる瞳、気配。その一つ一つを、確認するように探っていく。
「あれも……違う。ええと……痛ぅっ!」
しかし、理性的な思考を試みようとする度に、阻害するかのような強制力による激痛が襲いかかる。

(もうっ! 『静寂』、うるさいっ!)
ネリーは、気がついていた。いや、精確には直感で確信していた。
これまでずっと大人しかった『静寂』がケムセラウトに着いて以来こうまで唐突に性質を変え、繰り返し干渉をしかけてくるその理由に。
今も感情を平静に保とうとするだけで邪魔をするように襲ってくる鋭い頭痛。急に、ネリーの感覚では"我儘"になり始めた衝動の意識。
それらの事実を並べ、推論をした訳でも無く、考察した訳でもなく。ただ、原因だけにはおおよその見当が付く。
「――――これっ!」
そして、ようやく"見つける"。
振幅の波が一際激しく、思わず意識を真っ白に塗り替えられてしまいそうになる程の気配。非常に"近い"想い。
ぐっと舌を噛んで耐え、崖の先を見上げ、きつく睨みつける。そこに在る、『静寂』が"共鳴している"緑"の波動を。

「あ痛っ! あっ……あたたぁ……へ、……へへへ」
「……どうした、の?」
異変を感じたシアーが振り向くのが、背中越しにでも良く判る。周囲に対して、異常なまでに過敏になっている神経。
身体中のマナが全て戦闘用に置換されていく。快楽信号が全身を駆け巡り、殺意と引き換えに意識を譲り渡せと迫り来る。
手放せば、それが代償になる。それでシアーも守れる。誘惑が本来の潜在能力と混ざり合い、『静寂』の干渉を心地良いものへと換言する。
「でも、さぁ。……それじゃ、泣くんだよ、ねぇ」

  パシッッ……――――

丈夫な糸が張力に耐え切れず千切れるような。短く区切る、閃光のような音がネリーの深層で響く。
切所に於いて制したのは、単純に結晶化された思考。"泣かれるのは嫌だ"、という、宿主の根本的な拒絶。
引き出された『静寂』の残力がネリーの身体へと逆流し、敵を威圧する程の巨大なウイングハイロゥを現出させる。
「っ! わ、わわ、ネリー?!」
「はあぁぁぁっ! いっけぇーっ!」
正に飛びかかって来ようとしていた敵の機先を制するようなタイミングはおおよそ偶然だったにせよ。
破壊衝動でもなく、殺意でもなく。ただ純粋に、もうこれ以上は泣かせないという、ただそれだけの為に。
共鳴の"根源"へと、ネリーは白翼を羽ばたかせる。そしてそれは、紛れも無く"ネリーの意志"だった。

風を巻き上げ、発生した乱気流が木の葉を無数に舞い上がらせ、それに乗じて突っ切った崖の上空。
静止した空中で目標の少女と、そのすぐ側で動かないオルファリルと、立ち向かおうとしているヘリオンを見る。
髪の毛に絡みついた木の葉や露や土埃などは、気にもならない。どうせ滑空してしまえば、全部振り切れる。
「てりゃあぁぁぁっっ!」
ネリーは、突っ込んだ。『静寂』を両手で引きつけ、恐らく一撃では難しいであろう狙いだけに焦点を定めて。