Twinkle fairies

一章:刻んだ想い

悠人がこの世界に召喚されて七ヶ月が経ったシーレの月。溢れたラキオス王の野心は、遂にバーンライト王国に対する宣戦布告と言う形
で顕れた。
 悠人たちがサードガラハム討伐を敢行した三ヶ月前のエクの月、バーンライトのスピリット部隊がラキオス領内に侵入していた事が確
認されていた。バーンライトとしては伝説のエトランジェが現れたと確認されたラキオスに対抗すべく、サードガラハムを討ち滅ぼし、
保有するその大量のマナを獲得して軍事力の強化を狙っていたのだろう。
 しかし、バーンライトの思惑は外れ、ラキオス領内に侵入したバーンライトのスピリット部隊は『国籍不明』のスピリットとして、同
じくサードガラハムの討伐に進軍していた悠人たち率いるラキオスのスピリット部隊によって撃退されていた。
 ラキオスはこの件に対してバーンライトに正式な抗議と真相の説明を要求したが、敵対国であるラキオスに危機感を抱いた為と説明出
来よう筈もなく、結局バーンライトはラキオスの望む様な返答を返せずにいた。
 否、『ラキオスの望む』と言う点でならばバーンライトの取った対応はこれ以上は無いものであったであろう。バーンライトに宣戦布
告する迄の三ヶ月の間、ラキオスはこの事件を大々的に国民に報じ、国民にバーンライトに対する反感と不信感、そして好戦ムードを植
え付けていたのであった。
 国内の世論を操作したラキオスは、国家主権の不可侵の保持とバーンライトに対する制裁を名目としてスピリット隊を進攻させたのだ
った。
 全てはラキオス王の思い描いたシナリオ通りであった。

「ねぇねぇ、ユート様。ハイペリアってどんな所なの?」
「なの~?」
 悠人率いるラキオススピリット部隊は早々に制圧したバーンライトのリーザリオを新たな拠点とし、次の砦のリモドアへ向けて大躍進をし
ていた。今回の作戦に参加したラキオスのスピリットの数は決して多くはなかったが、それを補って余りある程に個々の能力に秀でたスピリ
ットたちが揃っていのだ。
 回復の神剣魔法と防御を担うエスペリア、ハリオンたち緑スピリット。
 強力な攻撃の神剣魔法を得意とするオルファリルと魔法を負荷した剣での近接戦闘を得意とするヒミカたち赤スピリット。
 白兵戦での前衛と後衛の要たるアセリア、ネリー、シアーたち青スピリット。
 尚、遊撃や陽動、撹乱等の特殊な任務を得意とする黒スピリットのヘリオンも配属されたのだが、前線で戦うにはまだ時期尚早であると判
断したエスペリアの助言もあって今回はラキオスに残って訓練を優先させる事となった。
 因みに、今回の作戦期間中に訓練施設で泣きながらもヘリオンが一生懸命真面目に訓練していた事は泣いた本人と担当していた訓練士だけ
の秘密である。
 よって、今回のバーンライト進攻作戦には悠人を含め実質八名で臨む形となっていた。
「ハイペリアにもラナハナやリクェムがあるって本当なの?」
「そうなの~?」
 行軍中にも関らず、悠人たちラキオススピリット部隊は緊張とは懸け離れた状態に陥っていた。
 原因は明確で、今回新たに加わった青スピリットの双子、ネリーとシアーの矢継ぎ早な質問攻めである。
 双子と言ってもスピリットに血縁と言う物は存在しないらしかったが、そのあまりに似た二人の容姿に二人を双子の様に扱っていた為、本
人たちも今ではすっかり本物の姉妹の様に互いに接していた。
悠人も、紹介された当初は思わずエスペリアにスピリットにも姉妹がいるのかと訊いた程である。
「こら、二人とも。今は作戦中ですよ?それに、ユート様にそんな不躾な質問をしてはいけません。ユート様も困ってしまいます」
 悠人の優秀な補佐官であるエスペリアが窘めるが、そんな事では二人の好奇心が収まろう筈もなく、二人は残念そうな視線で悠人を眺めた。

「別に良いさ。エスペリア」
「ですが、ユート様」
「『求め』が周囲には他の神剣の反応は無いって言ってるし、さっきからずっと哨戒状態で流石に皆も疲れてくるだろ?それに皆俺の世界の
事に興味があるみたいだしな」
 ぶっちゃけ、俺がきついし…。と、悠人は言葉を飲み込んだ。
 悠人も進攻に当たっての心構えをエスペリアから教わっていた。
 これは互いの国権を賭けた代理戦争である事。故に命を賭して、否、命に代えてでもスピリットはその任務を遂行せねばならない事。初陣
が最も命を落とす危険を孕んでいる事。そして何より、他ならぬ悠人の義妹、佳織の為にも悠人は負ける事は許されない事。
 重々承知していた悠人であったが、やはりその重責は堪えるものであった。
 それに、悠人の手には先日のリーザリオ制圧の時にスピリットを斬った感触が残っていた。佳織の為、遭遇した敵とは戦う覚悟は出来てい
た。しかし、戦いが始まる前くらいは悠人は戦いの事は忘れていたいのだった。
 悠人の雰囲気に何かを感じ取ったのか、エスペリアは「解りました…」とだけ言うと黙って悠人の後ろに下がった。
「サンキュ、エスペリア…」
 悠人はエスペリアに礼を言うと、先程から好奇の視線を送ってきたスピリットたちに悠人の世界、ハイ・ペリアについて語り始めた。
 自分は地球と言う惑星の日本と呼ばれる島国に住んでいた事。平日は学校と呼ばれる教育施設に通い、午後と休日はバイトに明け暮れてい
た事。佳織がフルートの奏者として推薦の話が来る程優秀である事。何かと世話を焼いて助けてくれる無二の親友たちがいた事。元の世界を
思い出すだけで、悠人はいくらでも皆の質問に答える事が出来た。

「ユート様、もういいよ…」
「うん、無理しないで…」
 最初、初めて聞く伝説の異世界の話を皆は夢中になって聞いていた。しかし、その話を打ち切る言葉を告げたのは、意外な事に一番話を興
味深そうに聞いていたネリーとシアーであった。
「ん、どうした?やっぱり、俺頭良くないから説明が下手で解りにくかったのか?」
 自分の現代国語の小論文の成績を思い出し、悠人はバツ悪く頭を掻いた。だが、そうではないと首を振る二人に悠人は益々混乱した。
「ううん…。ユート様の話は面白かったよ…」
「でも、そうじゃないの…」
「?」
 要領の掴めない悠人が他のメンバーを見渡すが、皆もネリーやシアーたちと同様に悲しそうな表情を浮かべていた。自分は何か悲しい話を
しただろうかと、悠人は皆に話した内容を思い出してみた。しかし、話したのは悠人の国の世界や佳織、そして光陰や今日子といった親友の
話ばかりで、寧ろ暗い話や悲しい話等は話していないと言えた。
「ユート様がね、辛そうなの…」
「だから、ハイペリアの話はもう良いの…」
「―っ!!」
 その言葉に、悠人は愕然とした。話をする悠人自身でさえ故郷の話をする時は楽しいと感じていた。だが、ネリーとシアーの言葉は悠人さ
え気付かない、無意識の望郷の念を見透かしていたのだった。
「あ、あのっ…?ユート様…?」
「ユート様…?」
 急に黙り込んだ悠人を二人が心配そうに見上げてきた。それを見た悠人は、二人だけでなくその周りの皆の自分を気遣ってくれていると言
う気持ちを感じていた。あぁ、ここには優しい心を持った掛け替えの無い仲間がいる。
 そう思うと堪らなくなり、気が付けば悠人は目の前の二人の頭を自分の胸に掻き抱いていた。
「わわっ!?」
「ユート様?」
 突然の抱擁に二人は驚いて悠人を見上げた。

「サンキュ、二人とも。それに皆。大丈夫、故郷が懐かしいのは変わんないけど俺にはちゃんと俺を大事に思ってくれる皆がいるからな。だ
から俺はまだ頑張れる。元気を貰ったからな」
 二人が見上げる視線の先には、暖かい目で周囲を見渡す悠人の顔があった。まだ悲しみの色は残っているけれど、それを抱えて進んで行け
る強くなった少年がそこにいた。
「あ…」
「あ~…」
 気が付けば、二人は悠人のその大きな手で頭を撫でられていた。剣を振り続けた所為か、その手は硬くてゴツゴツしていたけれど、それは
まるで干したての毛布に包まれたかの様な優しい心地良さであった。
「えへへ~♪」
「~♪」
 二人は生まれて初めて味わうその感触を、悠人が他のメンバーの視線に気付いて撫でるのを止めるまで目を細めて浸っていた。

「とーうっ!!」
 何処か緊張感の抜ける掛け声と共に、真っ白な翼の天使の光輪、ウィング・ハイロゥを展開したネリーが青スピリット特有のスピードを活
かした動きで翻弄した敵の懐に潜り込み、その手に握られた『静寂』で次々とバーンライト兵を金色のマナと還していた。
 次の目的地であるリモドアを目指して進軍していた悠人たちは、その半ばを越えた辺りで待ち伏せていたバーンライト兵たちの強襲に遭遇
した。事前に発せられた『求め』の警告に加えてエスペリアの的確な采配により、悠人たちは然したる混乱も無くバーンライト兵を迎撃する
事が出来ていた。
 固まり過ぎてそのまま神剣魔法の的になる事も無く、かと言ってバラバラに散開し過ぎて各個撃破される事も無く、悠人たちは部隊を二つ
に分けて数に勝るバーンライト兵たちと応戦していた。
「さぁってと、次は―。きゃーっ!?」
 既に幾多のバーンライト兵を屠り、その金色のマナを纏っていたネリーが次の標的を探して見渡していた。その最中、まだ漂っていたマナ
の霧を突き破り、突如姿を現したバーンライト兵がネリーに切り掛かった。
「ネリーっ!!」
あわや、その切っ先がネリーに届こうかと言う時。直前でネリーに追い着いた悠人がバーンライト兵をその長大な『求め』の刃で両断した。

「怪我は無いか!?ネリーっ!」
「う、ん…。へ、平気だよ、ユート様…」
 肩口から胸の半ばまでをバッサリ斬られていたものの、そこから覗く白磁の様に白い肌の細い肩や小枝を思わせる様な華奢な鎖骨、そして、
ともすれば少年のものと見紛う様なさやかな胸の膨らみからは出血の証である金色のマナは確認出来なかった。どうやら、斬り付けられる直前
にネリーは咄嗟に回避行動を取り、斬られたものは服だけで済んだらしい。
「前に出過ぎだ!もう少しで殺される所だったんだぞ!?」
「あぅ、ご、ごめんなさい。ユート様…」
 行軍中は優しかった悠人の、厳しい響きを含む怒声にネリーは思わず身を竦めた。
「―グゥッ!?」
 一息を吐く暇も無く、悠人の頭に『求め』の鋭い痛みが走った。急いで目を向けると、悠人とネリーに向けて今正に神剣魔法を放たんとする
バーンライトの赤スピリットの姿が飛び込んできた。
「くぅっ、間に合うか!?」
 咄嗟にネリーを背後に庇い、悠人は魔法を中和する障壁を構築させ始めた。悠人に続いて背後のネリーも魔法を無効化する神剣魔法、<アイ
ス・バニッシャー>を唱え始めたが、完全に先手を取れると確信したのか、先程まで人形の如く無表情であったバーンライト兵の口元には獲物
を仕留める獣を彷彿とさせる酷薄な笑みが浮かんでいた。
「ちぃっ、このままじゃマズイっ!!」
 展開中のシールドは間に合っても精々一人分。ならばそのシールドの加護を受けるべきは誰か。決断した悠人はまだ詠唱中のネリーをその
場に残し、自らを抵抗のオーラで纏って跳躍した。
「ユート様っ!?」
 その悠人のあまりに突飛な行動にネリーは思わず声を上げた。予想すらしていなかった。出来よう筈もなかった。悠人が取った行動は、そ
れ程迄にネリーの常識を超えたものだったのだ。
「うおぉーっ!!」
 あろう事か、悠人は雄叫びを上げながらバーンライト兵に突進していた。的は自分であると言う様に。ネリーを射線から隠す為、悠人はそ
の抵抗のオーラを身に纏って自らを盾としたのだった。


「ユート様ぁっ!!」
 突然の事態に、ネリーは詠唱も忘れて悠人の背中に向かって再び叫んでいた。
(死ぬ?ユート様が?ネリーを守る為に?ネリーはスピリットなのに?どうして?ダメ、今からじゃ詠唱も間に合わないよぅ。追い着くのも
もう遅いし。どうしよう?どうしよう?どうしよう!?どうしよう!!ユート様に何かあったらどうしよう!!ネリーは!ネリーは!どう
すれば良いの!?)
 普段は思考する事すら厭うネリーの頭の中では、目の前に起こった事態に対処しようとあらゆる知識と経験が高速で駆け巡っていた。しか
し、この状況を打開可能な方法が咄嗟に出る程、ネリーは卓越した策士でもなければ、熟練の戦士でもなかった。知識も経験も、そして知恵
も、何もかもがまだ年若いスピリットには圧倒的に不足していた。
 何も出来ない。果てしなく正解に近いその結論がネリーを打ちのめした時、ネリーは只その場に膝を着く事しか出来なかった。
(くそっ、やっぱり食らっちまうかっ!?)
 電流が流れている回路を思わせる、光り輝くマナによって浮かび上がった緻密な魔法陣を睨み付けながら悠人は半ば覚悟を決めていた。死ぬつもりは毛頭無かったが、この選択を選んだ代償が決して安いものではないと言う事を、悠人の生存本能と握り締めている『求め』が発す
る警告が告げていた。
「アイス・バニッシャー!!」
 間一髪。あわや、と言う所で悠人の目の前のバーンライト兵が凍り付いた。その一瞬の間の後、凍結が解け、同時に収束していたマナも霧
散して果てた。
「せぇいっ!!」
 ここにきての予想外の妨害に態勢を崩したバーンライト兵の致命的な隙を悠人は逃さなかった。裂帛の気合と共に振り下ろされた『求め』
は相手の左肩に深々と食い込み、鎖骨、肋骨と粉砕していき、最後に右の腰から抜けていった。
 空に立ち昇る金色のマナの中。悠人が振り返った視線の先には、安堵のあまり目元を若干潤ませている『孤独』を構えたシアーと皆の無事
を純粋に喜ぶハリオンの姿があった。

「ネリーもユート様も、無茶しちゃダメだよぅ…」
「お怪我はありませんか~?」
 『求め』からはもう敵意ある神剣の気配は伝わってこなかった。ふと、遠くから悠人たちを呼ぶ声がした。目を遣ると向こうからアセリアや
エスペリアたちがこちらに向かって来ているのが見えた。どうやらあちらも敵を片付けたらしい。
 改めて危機が去った事を実感し、悠人は大きく息を吐いて『求め』を腰に差した。

 幸いな事にそれ以降は敵襲に見舞われる事は無く、日が傾き始めた頃には悠人たちは交替で歩哨を立てて野営を設けていた。
 敵国の領内と言う事もあり何処か緊張した雰囲気が野営に漂っていたが、それだけではない別の緊張が圧迫感となって張り詰めていた。
 事の発端はネリーを庇って敵に吶喊した悠人の行動に関してであった。その行動が軽率であるだとか蛮勇である等と非難されればまだ悠人に
は納得がいったのだが、スピリットのネリーを庇う為に人間の、それもエトランジェの悠人が自らを盾とする事など言語道断であると言う副官
のエスペリアの諫言の内容は悠人にとって非常に納得がいかないものであったのである。
「何でだよ!?じゃあ、あの時はネリーを犠牲にして俺だけ逃げれば良かったって言うのかっ!?」
「そうです。今日のユート様が取られた行動は、無謀であるどころか我がラキオスにとって多大な損失となったかもしれなかったのです」
 野営テントの中に設けられた簡易作戦会議室。そこでは悠人とエスペリアの激しい口論が繰り広げられていた。尤も、声を荒げているのは専ら悠人でエスペリアは有無を言わせぬ強い口調で淡々と返すと言った状態であった。

 現在、野営の三方にはアセリアとオルファリル、ハリオンが歩哨に立っており、テントの中ではヒミカは何処か複雑そうに、シアーは只オ
ロオロと、そしてネリーは何処か居た堪れない面持ちでその二人の光景を黙って見ていた。
「確かに被弾は覚悟して突っ込んだけど、『求め』の力があれば十分有効な手段だった筈だろ!?誰も死ななかったし、被害だって最小限に抑
えられた!!」
「ユート様、それは結果論に過ぎません。今回の結果は偶々敵の赤スピリットが低位の神剣魔法しか使えなったから成功したのです。若し、
今日ユート様を攻撃した敵がより強い敵でしたらシアーの<アイス・バニッシャー>で無効化出来なかったかも知れませんしユート様のシール
ドも貫かれていたかも知れないのですよ」
 エスペリアの言葉に悠人は奥歯を噛み締めた。確かに、全て上手くいったのは幸運としか言い様が無かった。次もこの様な事態に陥った時
、再び今日の様に命を拾うと言う保障は無い。ともすれば、今日、金色のマナに還ったのは悠人自身であったかもしれないのだ。
 沈黙した悠人を見て、エスペリアは悠人が感情的になっているものの、理性的な思考がそれを静めつつある状態にあると判断し、内心で一
息吐いた。
 感情の揺れ幅が激しい悠人であるが、最後には理性で押さえ付ける。優しいこの人間の少年は、その優しさ故に感情を爆発させ、そしてそ
の優しさ故にその感情を押し殺すのだ。
今回の事も、非難されるべき点においては概ね反省の色が見て取れた。強情な処はあるが、心根は素直な少年なのだ。
 しかし、そんな優しくて素直な悠人の最も受け容れ難い考えを、エスペリアは納得させずとも理解させなければならなかった。

「ユート様はカオリ様をお守りになるのでしょう?でしたら、私たちを犠牲にしてでも絶対に生き延びねばなりません。ユート様が命を落
とされてしまったら、残されたカオリ様を一体誰がお救いになるのですか?」
「―ッ!!」
 エスペリアの言葉に、悠人は息を呑んだ。そして、その顔に浮かぶ表情を見たエスペリアの心もズキリと痛みを覚えていた。卑怯だと罵
られても良かった。否、いっそ恨まれても良いとさえ思った。悠人にとって佳織の存在をちらつかせて押さえ付けられる事がどんなに酷な
事であるか。エスペリアに解らない筈が無かった。
 だが、そんな汚い方法を使ってでもこの少年に言い聞かせねばこの少年は易々と命を落としてしまうだろう。異世界からやってきた目の
前の少年にとって、血に塗れた剣と破壊を撒き散らす魔法に溢れたこの世界はあまりにも無慈悲であったのだ。
「ご、ごめんなさい…。ユート様…」
 それまでじっと黙っていたネリーが口を開いた。
「ネリーがユート様に迷惑かけたから…。スピリットのネリーなんかの為にユート様を危険な目に遭わせたから…」
「なっ!?ネリーっ!」
 悠人の背中に庇われた時、前に出て我が身を盾にすれば良かった。
 悠人は人間、ましてや伝説のエトランジェ。片や自分は高位の神剣を持つわけでもなければアセリアたちの様な名うての有能なわけでも
ない只のスピリット。
 そんな一介のスピリットたる自分の為に悠人が危険に晒される事などあってはならない事であった。
 ネリーの言葉に血相を変えた悠人の表情は何が浮かんでいただろうか。激しい怒りだろうか、それとも深い悲しみであろうか。どちらに
せよ、テントから跳び出したネリーにそれを知る術は無かった。

「あっ!ネリーっ!?」
 跳び出したネリーをシアーが慌てて追い駆けて行った。
 悠人は何かを言おうとしたが、言葉を掛けるべきネリーの姿は既に無く。結局は二人の出て行った出入り口を只眺める事しか出来なかった。
 暫く悠人がその場に立ち尽くしていると、
「あらあら~。ご飯の匂いがしないと思ったら、まだ誰も準備をしてなかったんですね~」
「あ、あははは…。じ、じゃあオルファと一緒に作ろうよ、ハリオンお姉ちゃん。アセリアお姉ちゃんも、お野菜切るの手伝って。テノルグ
(玉葱)とかアセリアお姉ちゃん切るの上手だし…」
「ん、任せろ…。今度は最後まで、泣かない…」
 果てし無く場違いな会話をしながらテントに現れたのは、現在哨戒に当たっている筈のハリオンとオルファリル、そしてアセリアの三人であ
った。
 突然の闖入者にエスペリアは唖然とし、ヒミカは眉間に人差し指を当て、悠人は思考が凍結していた。
「あ、貴女たち、哨戒は一体どうしたのですか?」
「え~っとですねぇ~。先程ネリーさんとシアーさんに頼まれまして~、交替したんですよ~」
 三人の中で逸早く立ち直ったエスペリアの問いに、ハリオンがのほほんと答えた。
「ですが、哨戒は三人一組で当たる筈です。何故三人とも戻って来ているのですか?」
「それはですねぇ~…」
 言葉を途中で切ると、ハリオンは二人の遣り取りを傍観していた悠人の腕を取り素早く自分の腕を絡めていた。
「は、ハリオン!?」
「あら~?ユート様、そんなに驚いた顔をなさるなんて~。お姉さんとぉ、こうやって腕を組むのは嫌ですかぁ~?」
 思わず上擦った声を上げた悠人に、ハリオンはさも心外と言う表情でしんなりと首を傾げた。

「いや、そうじゃなくて…。急にくっついてこられたから…」
「そんなぁ~。ユート様は今日はネリーさんやシアーさん、オルファさんには頭を撫で撫でしてあげてたのに私にはしてくれなかったじゃ
ないですか~。それに~、私がユート様を撫で撫でしたいと言っても遠慮してしまわれましたし~。お姉さんはとぉ~っても寂しかったん
ですよ~?だから、少しくらいこうさせてもらっても良いじゃないですか~」
 下から顔を覗き込む様にして詰め寄り、ハリオンは更に悠人に密着してその肩に己の頭を載せた。
 密着した箇所から伝わる柔らかさと体温、そしてハリオンから漂う女の子特有の体臭とそこに仄かに混じる汗の生々しい匂いに悠人の心
臓は一気に激しい早鐘を打ち始めた。
「は、ハリオンっ!ユート様が困っていらっしゃいますっ! 」
「でも~、嫌じゃないですよね~?ユート様~」
 見兼ねたエスペリアがヘリオンを諫めるが、ハリオンは別段気にした風でも無く、剰え、息も掛かる程に寄った悠人の目の前で、見せ付
ける様にその桜色をした唇をその赤い舌でしっとりと湿らせて微笑んでみせたのだった。
「………(ごくり)。はっ!?」
 はしたなくも鳴らしてしまった己の喉の音に悠人は我に返った。いけない、このままでは道を踏み外してしまう。ここで選択肢を間違え
ぬ為にも、悠人は邪念を振り払うかの様にして頭(かぶり)を振った。
「やぁん♪そんなに動いちゃ、めっ、ですよぅ~?」
 動いた拍子に絡められていた悠人の腕がハリオンの豊満な胸の谷間に挟まれたが、ハリオンも口で言う程怒ってはおらず、寧ろ嬉しそう
に肩を竦ませて更に悠人にぐいぐいとその身を押し付けていた。
「ユート様が~、私たちの代わりに歩哨に立って下さいますから~」
「そんな、隊長であるユート様にその様な事をさせるわけにはまいりません。それならば、この私が歩哨に立ちます」
 エスペリアが反発の声を上げるが、ハリオンはまるで風の調べを聞いているかの様に平然と聞き流していた。
「うふふ~。ユート様ぁ~?」
「な、何だ?ハリオン…」
 内緒話でもする様なハリオンの声の調子に、悠人も反射的に囁き返した。

「この場で~、思いっきり背筋(せすじ)を伸ばしたいと思いませんか~?」
「―っ!?」
 ハリオンのその言葉に悠人の背中でかつて無い程の冷や汗が噴き出した。ひょっとすれば、サードガラハムと対峙した時に匹敵するかもしれな
かった。
「初めての野営は意外と疲れるんですよ~?ですから~、体を解しておかないと寝ても中々疲れが取れないんです~」
「は、ハリオン…?」
 ハリオンの恫喝に、悠人は只戦慄するしかなかった。既に己の肉体は一部制御不能に陥っており、悠人は男としての矜持を、人間としての尊
厳を守る為には、この恐ろしい少女の言葉に従うより方法は無かったのだった。
「い、良いんだエスペリア。それに、皆にばっかり見回りさせるのも悪いし…」
「ですが、ユート様…」
 尚も食い下がるエスペリアを悠人はそっと手で制した。
「実は俺、見張りって好きなんだよ。ホラ、店員のバイトでそんなのもあったし。全然気付かれずに不審な奴とかチェック出来るんだぜ?皆に
も見せてやりたいくらいだよ…」
「泣いていらっしゃいますよ?ユート様…」
「はっはっは…。お願いです、エスペリアさん…。どうか俺を歩哨に立たせて下さい…」
 隊長としての威厳も全て投げ捨てて、悠人はエスペリアに懇願、否、哀願した。
 若し、肉体の自由があったならば悠人は土下座すらしていたかもしれない。尤も、この世界で悠人たちの作法が通用するかはさて置いて…。「は、はい…。ユート様がそう仰るのでしたら…」
「有難う…。エスペリア…」
 そのあまりにもあんまりな悠人の態度に、エスペリアも引き気味に了承してしまった。
「さぁ~、お姉さんが一緒に案内いたしますよ~?」
「………」
 ハリオンに促され、悠人は護送車に連行される囚人の如く、無言の前傾姿勢でその場を後にしたのだった。

「ネリー…」
 テントを飛び出して追い駆けては来たものの。膝に顔埋めて塞ぎ込んだままのネリーの隣で、シアーは先程から只心配そうに声を掛ける事しか
出来ずにいた。
 今ネリーを苛んでいるその考えが、同じスピリットたるシアーには良く理解出来た。人に仕えるスピリットが人間を危険に晒す事など到底許さ
れる事ではない。過失であるとは言え、否、過失であるからこそその責は重かったのだ。
 風説では、大罪を犯したり人間に危害を加えたスピリットは処刑されてその身をマナの結晶へと還されてしまうと言う。
 スピリットは貴重ではあったが、戦闘において適性の無いスピリットなど所詮は単なる欠陥品でしかなかった。欠陥品に有限である貴重なマナ与えて無駄にするくらいなら、いっそより適性のある有望なスピリットやエーテル施設に当てるマナに還した方が遥かに有益である。それがこの世界の常識であった。
 幸いにもネリーたちが転送されたラキオスは、レスティーナ王女の意向によってスピリットに対して比較的寛容な傾向にあった為、処刑された
スピリットはまだいない。
 しかし、ラキオス内においてさえその寛容さを批判する声があるのも事実であった。
 非常時において何よりも優先されるべきは国の存続である。国の備品であるスピリットたちを犠牲にしてその危機を脱却出来るのならば、一体
誰が異を唱える事が出来るだろうか。
「ネリーは、どうすれば良いのかなぁ…」
「ネリー…」
 ネリーの悲愴な呟きに、シアーは只隣に座って一緒に途方に暮れる事しか出来なかった。

「ったく…。ハリオンの冗談にも程があるぞ?」
 まだ半身に残るハリオンの感触とその匂いを払拭する様に悠人は呟いた。因みに、先程悠人を拿捕していた当のハリオンはテントの外へ出るや
「は~い、じゃあしっかり頑張るんですよ~?ユート様は男の子なんですからね~」
 と、言い残し、早々と夕飯の支度に取り掛かっていった。
 最初は戸惑っていた悠人であったが、哨戒に当たっている間に自分の頭が冷えてきた事に気が付いた。
(この世界は、ファンタズマゴリアは俺たちが生きてきた世界とは違うんだな…)
 テントの中でのエスペリアとの口論を思い出し、悠人は改めてその事を実感していた。

 『ファンタズマゴリア』。悠人たちの世界を『ハイ・ペリア』と呼ぶのに対し、この世界の人々は自分たちの住む世界に名を付けてはいなか
った。尤も悠人たちも自分たちの世界に名など付けていなかったのでとやかく言えないのだが、佳織が好んで読んでいたファンタジー小説の舞
台である世界の名前から取って、暫定的にこの世界を『ファンタズマゴリア』と呼ぶ事にしたのだ。
 剣と魔法の世界。王子と女騎士の件は流石に異なるが、勇者と妖精等とくれば本当にこの世界はファンタジーの世界そのものであった。
 しかし、この世界に悠人は違和感を覚えていた。勿論、悠人の世界とは異なるこの世界の常識もであるが、何よりも噛み合わないのは生活の
水準であった。
 歴史の知識から言って、この世界の文化レベルは精々中世ヨーロッパくらいであろうと悠人は考えていた。だが、この世界には不釣合いな程に人々の生活を潤す技術があった。それがマナを利用した『エーテル技術』であった。
 スピリットの館に住んでいた時、悠人はこの世界の風呂は火を焚いて湯を沸かすのだと思っていたが、実際には蛇口を捻れば直ぐに温かい湯
を得る事が出来たのである。それだけではない、厨房の火も、闇を照らす明かりも、全てはエーテル技術によってその恩恵を齎されていた。
 悠人の世界ならば別段驚く事でもなかったのだが、この世界においてのエーテル技術は悠人の目からみても明らかにオーバーテクノロジーで
あった。
(いや、今はそんな事はどうでも良いんだ。問題はこの世界のスピリットに対する考えだろ…)
 生まれながらにして戦争の道具として扱われるスピリット。否、実際に彼女たちに対する人間の扱いは道具以下であろう。人間は便利な道具を恐れはしない。そこにあるのは、自分より優れた者に対する妬みや恐れ、憎しみと言う人間の負の感情であった。
 それが悠人には我慢が出来なかった。誰よりも強く、勇敢で、優しい彼女たちは他ならぬ人間の為に戦っていた。しかし、傷付いて倒れ逝く
スピリットたちに対して人間はあまりにも高慢で身勝手であった。

(ん?あれは…)
 そろそろ野営を一周しそうになっていた悠人の視線の先に、寄り添う様にして夕陽に佇む二つの影があった。
(そう言えば、さっきまで散々怒鳴ってたんだっけ?俺…)
 泣きそうだった顔のネリーや怯えた顔のシアーを思い出し、湧き上がってくる罪悪感に悠人は思わず歩みを止めた。
夕陽の逆光でよく見えないが、目を凝らして見ると膝を抱えて蹲っているネリーを同じ様な姿勢でシアーが眺めているのがぼんやりと判
った。幸か不幸か、二人とも悠人の存在にはまだ気付いていない様であった。
 悠人は先刻までのテント内での出来事を思い出し、このまま踵を返してしまおうかと一瞬考えた。悠人の考え方とこの世界の考え方と
ではあまりにもその溝は深い。争いと最も遠い世界に住んでいた悠人の言葉など、所詮は只の奇麗事を並べていると映るかもしれない。
 だが、悠人が心の片隅で燻るものを感じている事も紛れも無い事実であった。それは単なる意地に過ぎないのかもしれないが、佳織と
二人で理不尽な社会を生きてきた悠人にとってその意地は決して譲れない意地であると言う確信があった。では何の為の意地かと自問し
、その答えは悠人の最も単純な気持ちに繋がっている事に悠人は気が付いた。
 迷わず踏み出したその一歩は、悠人でも驚く程に軽くなっていた。
「よ。二人とも」
「あ、ユート様…」
 黄昏れていた二人の背中に、悠人がいつもの調子で声を掛けた。ネリーはまだ気拙さを感じているらしく、反応はしたものの依然とし
て抱えた膝に顔を埋めていたが、シアーは悠人の何処か晴れ晴れとしたその調子に思わず振り返ってしまった。
「ネリー、ユート様だよぅ…?」
「いや、さっきまで俺あんなだったし…。ネリーも顔合わせ辛いだろ?だから、そのままで良いよ」
 ネリーの袖を引くシアーをやんわりと制し、悠人は二人の後ろに立ってサドモア山脈に掛かる夕陽を眺めた。

「御免な、二人とも…。怖かっただろ…?」
 悠人の口調は明るかったものの、先の剣幕を思い出してしまったシアーの表情が僅かに曇った。
 だが悠人は然して気にするでもなく、そのままの調子で二人に話し掛けた。
「俺さ、やっぱりスピリットだとか言われてもネリーやシアーたちを戦争の道具として扱うのは絶対納得出来ないんだ。何て言うか、俺は
もうスピリットも人間と変わらないって解ったからさ…」
「シアーたちが…?」
「うん。だから、皆が危険な目に遭えば心配するし、馬鹿にされたら腹が立つ。皆俺の大事な仲間だからな…」
「本当?ユート様…」
 それまで蹲っていたネリーが振り返って悠人を見上げた。
「本当にユート様はネリーたちを人間と変わらないと思ってる…?」
 そう言ってやおら立ち上がったネリーの右手には、夕陽に染まる抜き身の『静寂』が握られていた。
「ネリーっ!?」
「ネリーっ、何してるの!?」
 悠人たちが止める間も無く、ネリーは自らの左手の甲に紅を一筋刻み付けていた。
「―痛ぁ…」
 思わず痛みに顔を顰めたネリーの左手からは、傷口から滲む血が金色のマナとなって夕陽に染まっていた。
「ネリーたちの体はこんなのだよ?それでもユート様はネリーたちが人間と変わらないって言うの…?」
 突き出された左手とネリーを交互に見遣ると、悠人は黙ってその手を取り自らの右手を重ね合わせた。
「えっ!?」
「ユート様っ!?」
 今度はネリーが驚く番であった。悠人は腰に差された『求め』を左手に持つと、先程のネリーと同様に自らの右手の甲にマナの霧を立ち
昇らせたのだった。
「痛かったか…?」
「え…?」
「こんなに切って、痛かっただろ?」
「う、うん…」
 じっと目を逸らさない悠人の真剣な眼差しに、ネリーは思わず肯いてしまった。
「人間だって同じなんだ。怪我したら痛いし、悲しい事があれば辛い。良い事があれば嬉しいし、誰かを思い遣れる優しさだって持ってる」
 ネリーのマナと悠人のマナが混ざり合いながら立ち昇っている互いの手。それが決して離れない様、悠人は深く指を絡めてその様をネリー
に見せた。

「マナの霧だとか、そんな目に見える処じゃない。ネリーが感じてるものは何一つ俺と変わらないんだ。それは目に見えなくても、見えるもの
よりもずっと大切な事なんだ。ネリーたちは道具じゃない。ちゃんと心を持って生きてる。俺がそれを知ってる。だから、スピリットは人間と
は違うなんて、道具だなんて悲しい事言うなよ。優しいネリーたちの方が、余っ程人間らしい心を持ってるじゃないか…」
 視界がぼやけて悠人の顔が見えなかった。目の中が邪魔で瞬いてみると、ネリーの頬に血かと思う熱い雫が流れた。
「うぅ、ユート様ぁっ!!」
 泣いていると気付いた時には、その胸の中に飛び込んでいた。大きな体と力強くて太い腕が、小さな体を精一杯抱きしめてくれていた。一杯
に広がる悠人の匂いと温もりが、ネリーの心を包んでいた氷を優しく解かしてくれている様だった。
「一つ、俺と約束してくれないか…?」
「約束…?」
 悠人の顔を見上げながら、ネリーが鸚鵡返しに呟いた。
「まぁ、どっちかって言うと、お願いかな…」
「うん…。分かったよ、ユート様…」
 こくりと頷くネリーを見て、悠人が優しく微笑んだ。
「じゃあさ、絶対に生き延びるって言ってくれないかな…」
「うん、ユート様がそう言うなら、ネリーは絶対に生き延びてみせるよ…」
「そっか、サンキューな…。ネリー…」
 ネリーのサラサラした頭を撫でながら悠人は安堵した。解り合えない事なんて無い。きっと、人間とスピリットが平和に暮らせる世界が来る。
それまでは、自分だけでも彼女たちの味方でいよう。少なくとも、この腕の中の少女が泣く事だけは無い様に。

「あ…」
「どうしたの、ユート様…?」
 悠人の素っ頓狂な声にネリーが首を傾げて質問した。
「『求め』で傷を治すのを忘れてた…」
 悠人が気付いた頃には、すっかり二人の傷の出血は止まっていた。傷が出来て直ぐならば傷跡も残らす綺麗に治るのだが、今回の様に回復
が遅れると全てが元通りとはいかなくなってしまうのだ。
「ごめんな、ネリー」
「ううん、良いよ…。」
「でも、女の子の手に傷が残るのはダメだろ…」
 悠人の言葉に、ネリーはその自慢のポニーテールを元気良く左右に振ってみせた。
「ユート様とお揃いだから、ネリーはちっとも気にしてないよ」
 そうやって翳すネリーの左手の甲には、恐らく一生ものであろう一筋の傷跡が自己主張していた。
 因みに、羨ましがったシアーが真似して左手の甲を切ってお揃いの傷を付けた事は(勿論、泣いた)、三人だけの秘密となったのであった。