「あら、こんなに早く起きてくるなんて珍しいわね」
厨房で朝食の準備をしていた給仕服のセリアは、居間に現われた二人の姿に少し驚いた。
「えへへ~。今日もユート様の所に遊びに行こうかな~って思って」
「頑張って、早起きしたんだよ~」
洗濯物の入った籠を運びながらネリーとシアーが答えた。
「そう、偉いわね。じゃあ頑張って洗ってきて。私もそれまでには朝食を作っておくから」
「うん」
「分かった~」
洗い場へと消えて行った二人を見送り、セリアは一人微笑んだ。
この前の悠人と街に遊びに行った日から二人はずっと機嫌が良かった。お陰で第二詰所はここ毎日が賑やか過ぎる程だ。
「アレ?ネリーさんとシアーさん、今日は早起きなんですね」
帯を締めながら、セリアと同じ給仕服に身を包んだヘリオンが厨房に入ってきた。
「お早よう、ヘリオン」
「あ、お早ようございます。セリアさん」
挨拶を済ませ、野菜を刻み始めたセリアの隣でヘリオンは野菜を洗って皮を剥き始めた。
「仕事を早く終わらせて、ユート様に会いに行くそうよ」
「そうなんですか~。良いなぁ~」
羨ましそうにヘリオンが呟いた。
「あら、今日は私たちも休みなのよ?折角だから、貴女もユート様をデートに誘ってみたらどうかしら?ヘリオン」
「ふわきゃっ!?」
コロン、とシンクから音が鳴った。
見ればラナハナ(人参)の先が見事に切り落とされていた。
いけない。つい冗談でからかってしまったが、ヘリオンには刺激が強過ぎたのかもしれない。
取り敢えず、ヘリオンの指が落ちなかった事にセリアは安堵した。
「そう言えば、カオリ様が第一詰所に移られてそろそろ一月になるわね」
「あ、はい。私ももう随分良くして貰ってます」
一月前迄はエスペリアやオルファリルを除けば佳織と面識を持っているスピリットは殆どいないと言っても過言ではなかった。
一応、ラキオスの重要人物として軍からの情報はあるものの、その内容は似顔絵や背格好などの判別の為の身体的な特徴ばかりであった。
エスペリアやオルファリルのお陰で軍からの情報以上の事はある程度手に入れる事は出来ていたが、逆にそれ以上の情報は全くと言って良い程に無かった。
それでも、二人からの佳織に関する情報は貴重であり、何よりその内容には驚かされるばかりであった。
曰く、ファンタズマゴリアに召喚されるや早々と聖ヨト語を習得してしまう程に物覚えが良い事。
フルートと呼ばれるハイ・ペリアの笛の名手である事。
可憐で折り目正しく、人徳のある人物である事。
列挙すれば枚挙に遑が無かった。
そして先月、ラキオススピリット隊は第一詰所に移ってきた佳織に挨拶に出向いたのだった。
二人の齎した情報に嘘偽りはなかったが、実際に会えばそれらの情報が佳織についてほんの一部の事しかなかった事を皆は思い知った。
同時に、悠人が戦ってきた理由にも納得したのだった。
それ程に、佳織は不思議な魅力を備えた少女であった。
「カオリ様の為だったんですよね…。ユート様が戦っていらっしゃったのは…」
しみじみと、ヘリオンは呟いた。
共に過ごす時間が積み重なる程に、悠人がつくづく争いを好まない人間であると皆は痛感した。
誰かが傷付く度、誰かを傷付ける度に悠人は怒り、涙を流した。これまで幾度の悠人の涙を見、これから幾度の悠人の涙を見ていくのだろうか。
きっと、悠人の涙が枯れる事は無い。
悠人の優しさが枯れる事が無いのだから。
涙を流している悠人に気付いたのは、サルドバルドの激戦を制した後であった。
初め、味方の誰かが倒されたのかと不安になったが、集まったスピリット隊は誰一人として欠けてはいなかった。
「ユート様、どうなされたのですか?」
皆を代表して、静かに涙を流す悠人にエスペリアが言葉を掛けた。
「死んじまった、いや、殺したんだ…」
誰を、とは言わなかった。ここが戦場であるだけに、その誰かが他ならない敵スピリットであった事は明白であった。
彼の体から立ち昇っている金色のマナ。恐らく、それが全ての結果なのだろう。
互いに殺し合い、そして殺し、殺された。
何度経験したかを忘れる程、当たり前でよくある事だった。
「死にたくない、って必死だった。
降伏するなら殺さないって言ったけど、目の前で散々仲間が斬られてるのに、そんな事言われても信じられるわけ無いよな?
逆に凄く怯えてさ、俺じゃ斬り伏せる事しか出来なくて…」
誰も何も言えず、只悠人の言葉を聞いていた。
「治そうとしたけど、駄目だった…。ハハッ、自分でやった癖に何のつもりなんだろうな…」
屠ったスピリットが倒れていたのだろう、悠人は大地の一点を見詰めていた。
「何で…!!」
悠人は叫んだ。
「何で『ありがとう』なんだよっ…!?助けられなかったのに、俺が殺したのにっ…!!」
憎んでくれれば良かった。怨嗟の声でも良かった。
それ以上に、斬り殺した敵スピリットの最期の言葉が何よりも悠人には残酷過ぎた。
消えていった微笑みが本物だと解ってしまった事が尚更に辛かった。
「ユート様。何度も申し上げた通り、私たちスピリットは戦う為に存在しています」
悠人に歩み寄り、エスペリアが言葉を紡いだ。
「敵として出会っていれば、私たちもユート様と剣を交えていました…」
相手が誰であろうと、戦えと命じられたスピリットは戦うしかない。
立場が違えば、今の仲間も敵同士だったのだ。
「ユート様、戦場では一瞬の躊躇が死を招きます」
解っていた。死ぬわけにはいかない。
この世界で佳織を守れるのは悠人だけなのだから。
「確かに、殺す事を躊躇うのは弱さだと思う…」
血を吐く様に、悠人は声を絞り出した。
「でも、誰かを殺せる事が強さなんかじゃない」
弱くても良い、平然と誰かを殺す事が出来るくらいなら。
殺しの免罪符など、存在しない。してはならないのだ。
「ユート様…」
隣に立ったエスペリアが、真っ直ぐに悠人を見ていた。
「私たちはユート様の下に集う事が出来ました。それは私たちにとって幸運な事でした…」
悠人がマナに還したスピリットを想い、エスペリアは少し遠い目をした。
「ですが、同時に不幸でもありました…。私がマナに還る時、その相手はユート様ではないのですから…。
私は、ユート様がマナに還されたスピリットを少し羨ましく思います…」
エスペリアが浮かべた表情に、悠人は驚いていた。
それは今し方見せられたあの微笑みで、そこに紛れも無い羨望が悠人には見て取れた。
「私たちの歩む道は血に染まっています。そして、その先はバルガ・ロアーに繋がっているのでしょう…」
空を飛ぶ鳥が翼を持って生まれてくる様に。
肉を食む獣が爪と牙を持って生まれてくる様に。
剣を持って生まれてくるスピリットは戦う為に生まれてくる。
殺す為に生まれてくるのだ。
そんな業を背負うスピリットたちにも救いがあるとすれば、それは悠人の様な人間がいてくれる事であろう。
出会える事であろう。
そして、涙を流してくれる事であろう。
たとえそれが殺された結果だったとしても、作業の様に殺されるくらいならいっそ悠人に殺された方が良い。
スピリットでも、こんなに優しい人間が想ってくれる事を知って逝けるから。
悠人の心に触れる事が出来るから。
「エスペリア…」
「そんな顔をなさらないで下さい、ユート様」
悠人の困惑を、エスペリアは微笑んで受け止めた。
「死ぬ覚悟は出来ています。ですが、ユート様は私たちに生きろと願って下さいました。ならば、私たちは最後まで生きようと思います」
死ぬ事が恐い。漠然とした恐怖だったそれが、今は途轍も無く恐い。
悲しむ誰かがいてくれるから。
共に生きたいと思うから。
「そっか…。サンキュ、エスペリア…」
「はい、ユート様…」
少し元気が出たのか、悠人が微かに笑っていた。
「ぐすっ、良い話ですよね…」
野菜を刻みながら、ヘリオンが滂沱の涙を流していた。
「ヘリオン?テノルグ(玉葱)が塩味になるからその辺で…」
「あ、す、スイマセン…」
目元を拭い、ヘリオンが改めて野菜を刻み始めた。
「でも、本当にユート様は争いがお嫌いなんですね…」
「えぇ、あれじゃ軍人は勤まらないわ…」
「ですけど、私はユート様が隊長で良かったと思いますっ」
珍しく断言したヘリオンにセリアが少し意地悪く笑った。
「あら?軍人に向かないのは否定しないのね」
「はい…。ユート様は優し過ぎますから…」
セリアとヘリオンは肩で溜息を吐いた。
悠人の優しさに、自分たちは報いているだろうか。
あの鈍感な少年は、自分が優しい事も優しくしている事も気付いていないのだろう。
それが普通だと想っている悠人だから、見返りなんて求めてくるわけがなかった。
「カオリ様と一緒に過ごされて、ユート様もやっと安心なさっているんでしょうね…」
「そうね、ユート様からカオリ様の話は良く聞かされてたわ」
得意気に佳織の事を語っていた悠人の佳織への溺愛ぶりを思い出し、二人は小さく笑った。
「セリアさん、私たちもお二人に会いに行きませんか?」
「そうね。これからまだまだ長い付き合いになるわけだし、何か包んで行きましょう」
「はい」
朝の第二詰所に、美味しそうな匂いが漂い始めた。